ヒーラー(11)
更新日: 2013-11-10
祈祷依頼の電話がかかってきて30分もすると、玄関のベルが鳴った。ドアを開けると、がっちりした中肉中背の三十代半ばと思われる精悍な顔をしたアジア人の男が立っていた。
「今さっき、お電話差し上げた者で、キム・ジョンと言います」と言って握手をするため手を差し伸べた。背広を着たその男は礼儀正しかった。
私は、キムをうちの中に入れ、先に立って居間に案内しながら聞いた。
「キムさんは、韓国人ですか?」
「まあ、そうです」
後ろからついてくる依頼客のおかしな返事を不審に思って、
「まあ、そうですって、どういう意味でしょう?」と、振り返ったとたん、キムは私の口にガーゼのような物を押し付けた。アルコールのような臭いがしたかと思うと、段々私の意識が遠のいていった。
私の意識がだんだんよみがえってきた時は、体がゆらゆら揺れている感じだった。まぶたはまだ重く、開ける気にはならなかった。ベッドの上に寝かされたいるようだが、今どこにいるのか、またどうしてここに横たわっているのかも、最初分からなかった。そのうち段々キムと言う韓国人の依頼客のことが記憶によみがえってきて、彼にガーゼのような物で口を塞がれ、意識がなくなっていったことを思い出した。すると、恐怖で身がすくんだ。このまま意識がないように振舞っているほうが安全なのかもしれないと思い、目を瞑ったまま、一体どうしたものかと、考えた。ゆらゆらゆれる感じは、船に乗っているためかもしれないと、見当をつけた。そうすると、北朝鮮の拉致事件のことを思い出した。皆袋のようなものをかぶせられ、北朝鮮に連れて行かれたということだったが、私は袋もかぶされてもいないし、手足もしばられていない。キムは韓国人だと言ったが、本当は北朝鮮人なのかもしれない。でも、私のような人間を北朝鮮に連れて行って、何の役に立つというのだ。そこで、キムが自分のおじの病気を治して欲しいと言ったことを思い出した。私に彼のおじさんを祈祷で治して欲しいということだが、それが本当だったとしても、北朝鮮にも私のような祈祷師なんて、たくさんいるだろうに、どうして私のような人間をオーストラリアから拉致しなければいけないのだろう。考えれば考えるほど、訳が分からなくなっていた。
すると、突然人の声が聞こえた。
「洋子さん、目が覚めましたか?」
キムの声だった。英語で話しかけるところを見ると、キムは日本語は話せないようだ。キムの声は穏やかで、誘拐犯が被害者に対して話しかけるような威嚇する口調ではなかった。私はおそるおそる目を開けると、
「おなかがすいたでしょう。食事を用意しましたから、食べてください」と丁重に言う。
そう言われると、とたんに空腹を覚え、おなかがキューと鳴った。私は何だか場違いな音に、苦笑した。
キムも苦笑いながら、私に食べ物を入れた皿を差し出した。私は起き上がって黙って皿を受け取った。皿には、肉と野菜を炒めたものとご飯が載っていた。キムチの臭いが鼻をついた。
「あなたは北朝鮮の人なんでしょ?」
私は皿の上のものに手をつける前に、キムの顔をにらみつけるようにして聞いた。
「そうです。よく分かりましたね」
キムはあっさりと認めた。
「あなたのおじさんの病気を治して欲しいということだけど、北朝鮮にもたくさん私のような祈祷師がいるでしょ?それなのに何故私をわざわざ北朝鮮にまで連れて行くの?」
「ミョンヒは僕の妹で、あなたは信頼できる人だと言っていましたから」
「そう言われても、納得できないわ。どうして私の意識を失わせてまで、無理やり連れて行こうとするの?」
次から次に沸き起こってくる疑問をキムに投げかけた。
「それでは、北朝鮮まで来てくださいと、まともに申し込んだら、あなたは承知しますか?」
私は黙って、かぶりを振った。
「そうでしょうね。皆北朝鮮を恐ろしい国だと思っているようですからね。だから、乱暴なことをしてしまったのです。すみませんでした」
キムは、深く頭を下げた。
「で、今私は船に乗っているのですね?」
「ええ。でも、これから飛行機に乗り換えてもらいます。船では時間がかかりますからね。おじの病気は緊急を要することなので、できるだけ早くおじの下に行ってもらいたいのです」
「こんなことまでするなんて、あなたのおじさんって、お金持ちなのね」
「ええ、まあ」と、キムはあいまいに笑った。
私は今更いやだと言っても解放してもらえそうもないし、だからと言ってすぐに殺されるということはないと思い、腹が減っては戦はできぬからと、お皿に載っていた物をもくもく食べた。その間、キムはどこかに消えてしまった。きっと、飛行機に乗り換える準備でもしているのだろう。
食べているうちに、ジョンのことが心配になった。
著作権所有者:久保田満里子