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ヒーラー(16)

私の頭がだんだん回転し始め、状況を理解したときには、キムの姿が見えなくなっていた。韓国ドラマの時代劇で、よく毒薬を飲ませる場面を見たが、このテーブルの上にのっている食べ物に毒薬がしかけられていたのではないか。そう思うと、ぞっとして、ミョンヒの顔を見た。

「洋子さん。ここにいては危ないわ。私についてきて!」と言うと、ミョンヒは私の腕を引っ張って部屋を出るとどんどん廊下を走り始めた。私はその時初めて身の危険を感じて、必死になってミョンヒの後を追って走った。廊下は途中でいくつにも分かれていたが、ミョンヒはどこに何があるのか分かっているらしく、一度も迷うことなく走った。必死になってミョンヒの後を追っていた私の心臓がドキドキしてきた。鼓動の音が段々高くなる。それにつれて息が苦しくなる。ミョンヒはあんな華奢な体でどこからエネルギーがでるのかと思われるほど、疲れを見せる様子もなく走る。ミョンヒが私の腕を放すと、段々ミョンヒとの距離が開いてくる。このまま後1分でも走れば、もう心臓がはち切れそうだと思ったとき、ミョンヒがドアを開け外に出た。彼女に続いて出ると、そこには赤いフォルクスワーゲンが停まっていた。その車の運転席に飛び乗ると、ミョンヒは助手席側のドアを開けた。私が助手席に転がり込むと同時に、ミョンヒは車を発車させた。私はハアハアと荒息をして、呼吸を整えるのに時間がかかった。車は舗装していない山道を走っているためか、揺れがひどい。体が宙に投げ出されそうになるのを、かろうじてシートベルトがとめていた。やっと、息が正常に戻ったが、でこぼこ道で車が揺れるので、気分が悪くなってきた。蒼い顔で、両手を拳にして、固く握り締めた。ほとんど何も食べていなかったので、吐き気が来なかっただけましだと思うべきかも知れないが、頭痛がし始めた。林の中の道は細く曲がりくねっていた。後ろから追ってくる車がいないか、振り返ってみたが、ミョンヒの車の出す砂埃で、後ろが見えない。運転しているミョンヒの横顔を見ると真剣そのもので、彼女の必死の形相を見ていると、話しかけるのがためらわれた。これからどこに行くのだろう?ミョンヒはどこを目指しているのだろう?そう思っているうちに車は舗装のしてある道に入り、車の揺れがおさまった。まっすぐな道路は閑散としていて対向車も見えない。追ってくる車がないか後ろを振り返って見た。追ってくる車はなかった。初めてほっとしてミョンヒに話しかけた。

「後ろから追ってくる車はないわ」

「よかったですねって、言いたいけれど、洋子さんは兄の力を知らないから、安心できるのよ」

「どういうこと?」

「兄は政府の諜報機関の幹部なのよ。つまり彼の一言で動く人間がたくさんいるってこと」

「それじゃあ、私はどうやればオーストラリアに帰れるの?」

「私も今どうすれば、洋子さんを無事にオーストラリアに送り返すことができるか、考えているところなのよ」

話しているうちに車は街中に入り、まるで巨大な矢じりのような三角形のビルが見えた。

「あれは、なに?」

「ああ、あれは柳京ホテル。まだ完成していないけれど完成すれば105階のホテルになるはずよ」

「へえ。あんなに大きなホテルが北朝鮮にあるなんて思っても見なかったわ」

ミョンヒは力なく笑った。

「私たちの国がそんなに低開発国だと思っていたの?」

ミョンヒの愛国心を傷つけたことに気づいて、私はあわてて謝った。

「ごめんなさい。でも、北朝鮮って、色んな新聞やテレビのニュースで見る限り、これといった資源も工業もない国だと思っていたわ」

「確かに、国費の3分の1は軍事費に使われていて、国民のほとんどは農民なんだけど、最近飢饉に見舞われて、食料も乏しいの。でも、一番困っているのはエネルギー不足ね。ガソリンも足りないからバスや電車はあっても、走らせられないのよ」

「そんなにもエネルギーに困っているの?ああ、わかった!」

私が突然大きな声を出したので、ミョンヒはびっくりしたようだ。

「え?何が?」

「高麗航空に乗ったとき、暖房が全然きいていなかったし、空港のビルも寒かったわ。エネルギーがないから暖房も思うようにできないのね」

ミョンヒはため息をついた。

「そうなんです」

街中に入っても、ほとんど車もいないし、信号機もない。ただたくさんの人が歩いており、ミョンヒの車は、他の車にぶつかる心配よりも、人間を轢く心配をしなければいけなかった。

車は街を通り抜けると、高級住宅街と思われる大きな屋敷が立ち並ぶ通りに入った。しかし、その通りに入ったとたん、ミョンヒは突然車を停めた。

「どうしたの?」いぶかる私にミョンヒは唇をかみ締めていった。

「兄の手下が、うちの門を見張っているわ。あそこを、見て!」ミョンヒが指差す方向に目を向けると、不気味な感じの男が二人、豪邸の門の前に立っていた。

「あそこは、どこ?どうしてお兄さんは、あなたがあそこに行くと知っていたの?」

「あそこは私のうちなの。兄が先に手を回したのね。これじゃあ、あなたを連れてうちに行くわけにはいかなくなったわ」

私はまっさおになった。

「じゃあ、私はどうすれば、いいの?」

こんな所で一人放り出されたら、すぐにキムの手下に捕まってあの世行きなのは目に見えている。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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