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六度の隔たり(10)

強盗事件のあった翌日、ミアの一家にとって、一大事件が起こった。
銀行に出勤したマークは、本店から転勤の辞令を言い渡されたのだ。
通知には、新しい勤務地はキングスリンとなっていた。キングスリンはイギリスの東の海岸に位置する小さな町だった。明らかに降格だった。辞令を読んだ後、マークはショックを受けて、その辞令をくしゃくしゃに丸めて握り締めた。それまで、マークは順調に昇進していた。マークは仕事が楽しくてたまらなかった。楽しいから一生懸命仕事をする。すると業績があがる。業績があがるので昇進するといった具合で30代半ばでヨークの支店長までに抜擢されたのだ。それが、この間起こった強盗未遂事件の責任を取らせられる感じで、降格されたのだ。マークは今まで感じたことのなかった挫折感に襲われた。2週間で新しい勤務地に赴かなければいけない。その日はそのまま仕事をする気になれず、早退したマークはミアにこのことを告げるのがつらく、すぐに家に帰る気にならず、足はパブに向かっていた。パブでビールを何杯か飲み、頭がふらふらするようになった状態で、タクシーを拾い、家に帰った。家ではミアがいつものように昼ごはんに作ったサンドイッチを食べながら、テレビでニュースを見ていた。ミアは人の気配を背後に感じて振り向くと、そこには蒼い顔をしたマークが立っていた。
「どうしたの?」と聞くミアに、マークは黙ってくしゃくしゃになった辞令書を渡した。ミアは訳が分からないといった顔でマークの顔を見ていたが、くしゃくしゃになった紙を受け取り、しわを伸ばして辞令を読んだ。
「これは、銀行強盗の責任を取らされたってこと?だって、強盗に襲われたのはあなたのせいじゃないじゃない」
ミアは情けないという気持ちよりも怒りがムラムラと湧き上がってきた。
「おもちゃのピストルかどうか見分けがつかなったのは、仕方ないじゃない。本物のピストルを実際に見たこともないあなたに見分けろって言うほうが無理だわ。何のためにあんなに一生懸命働いてきたの?これが一生懸命仕事をしてきたあなたに対する仕打ち?」
ミアの怒りの声にも何の反応も示さず、マークは無言で寝室に消えた。ミアは怒りを誰かにぶちつけなくてはいられず、すぐにジェーンに電話した。幸いにもジェーンは家にいた。
「ジェーン、聞いてよ。マークに転勤の辞令が出たのよ。あの強盗事件の責任をとらされたみたい」
ジェーンは言葉を失ったようだった。
「あの事件の日からマークは悪夢でうなされ通しで、毎日睡眠不足だったけれど、それでも決算が近づいているからって一日も休まないで勤めていたのよ。それなのに、降格されるっていうのは、どういうことかしら?腹が立って仕方がないわ」
「マークはどうしているの?」
「どうやらお酒を飲んで帰ったみたい。私がテレビを見ていたら、幽霊みたいに私の後ろに立っていたので、びっくりしたわ。いつも、自信たっぷりの人なのに、あんなマークを見るのは結婚して初めてだわ」
「ミア、それは気をつけたほうがいいわよ」
「えっ?気をつけろってどういう意味?」
「マークは今まで挫折したことない人なんでしょ?」
「そうね。そういわれれば、彼は学校でも勉強もよくできたって自慢していたし、銀行でも順調に昇進していたし、」
「挫折を知らなかった人が、挫折するような出来事に出会うと、よくうつ病にかかるって言うわ」
「そうなの?でも、どう気をつければいいの?」
「絶対彼を責めるようなことを言っちゃだめよ。そして、いつも傍で応援しているっていう態度を見せるの」
「そう?それじゃあ、気をつけるわ」
電話を切った後、ミアはきをつけると言っても、どのように気をつけたらいいか分からず、思い沈んでしまい、もう少しで娘のカイリーのお迎えを忘れるところだった。カイリーを学校から連れて帰ったあとも、マークは寝室から出てこなかった。
ミアは腫れ物にでも触るように、マークに接するときには細心の注意を払うことにしたが、夕食時になっても寝室から出てこようとしないマークを呼び出すために、そっと寝室のドアをノックして
「マーク、晩御飯ができたわよ。一緒に食べましょうよ」とドアの外から声をかけた。
すると、寝室のドアが開き、青白い顔をしたマークが最初に言ったことは、
「また、引越しだよ。引越しの準備をしてくれ」という言葉だった。
銀行を辞めるなんて言い出すのではないかとひやひやしていたミアは、その言葉を聞いて安心した。
それからは、引越しの準備に追われて、ミミアもマークもベン・マッケンジーのことは全く頭に思い浮かばなかった。


著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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