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六度の隔たり(23)

~~ ジーナが目覚めた時は、もう朝になっていた。カーテンの隙間から射し入る朝の光で目を覚ましたのだが、起き上がって周りを見ると、見慣れない家具で取り囲まれていた。夕べ酒に酔って頭が朦朧となったことを思い出した。ここは、ベンの家ではないかと気づくと、ドキッとした。夕べはあれからどうしたのだろう。自分の服を慌てて見ると夕べ着ていた服のままだった。靴だけは誰かが脱がしたようで、ベッドの傍に転がっていた。靴を履くと慌ててベッドルームを飛び出て、カチャカチャ瀬戸物をかち合わせる音がする方に向かった。音が聞こえてくるところは台所のようだった。ドアをそっと開けると、中でキースが紅茶を作っているのが見えた。キースはジーナに気づくと、「やあ、お目覚めですか?今紅茶を作って持って行こうと思っていたところですよ」とにこやかに言った。
「夕べ、私、どうしたんでしょう?」 
ジーナが恐る恐る聞くと、キースは笑いながら「もう、へべれけに酔って、住所を聞いても分からなかったので、仕方なく、父の家に連れてきたんですよ。父はまだ寝ているようですね。二人とも夕べは随分ご機嫌でしたね」と答えた。
「そうだったんですか」と呆然としているジーナに、キースは「はい、どうぞ」と淹れたばかりの紅茶を渡した。
キースはジーナがマグに口をつけるのを見ると、今までの笑いを消して、真剣な顔になった。
「父は、ジーナさんにまた会えて、本当によかったですよ。あのままでは、いつ自殺をしても不思議でないくらい母が死んでから父は生きる屍のような状態でしたからね。そこでお願いがあるんです」と言った。
ジーナはキースが改まって「お願い」などと言うものだから、身構えた。
「何でしょう?」
「これからも、時々父の様子を見に来てもらえませんか?僕も父のことが心配なのですが、何しろシドニーに住んでいるので、そうは頻繁には顔を覗けられないのです。ジーナさんに来てもらえれば、僕も安心ですし」
「確か、娘さんもいるんですよね」
「ええ、姉のシャーロットは、お母さんっ子でしたからね。たとえ母の頼みだったとは言え、父が母を殺したことをまだ許せないようです。まあ、姉が父と和解するにはまだまだ時間がかかると思います」
「そうですか」
ジーナは夕べベンと過ごした楽しさを思い出した。
「時々なら、私も顔を覗けることはできますよ」
「そうですか。よかった。断られたらどうしようかと思って、実は心配していたんですよ」とキースはまた笑顔に戻った。
台所のドアが開く音がして、ベンが台所に入ってきた。ベンもきのうの服のままで寝ていたらしい。茶色の格子模様のワイシャツと薄茶色のズボンがくしゃくしゃになっていた。
「おはよう」とキースが声をかけると、
「おはよう」とベンは言って、紅茶を飲んでいるジーナを見て、少し驚いた風だった。
キースはまた笑いながら
「お父さんも夕べのこと、覚えていないの?二人とも随分ご機嫌で酔っちゃったからなあ。二人も酔っ払いをつれて帰るの、大変だったんだよ」と言った。
ベンは、また刑務所にいた時のように眉間にしわを寄せた顔に戻っていた。ジーナは場違いな所にいるような居心地の悪さを感じ、慌ててマグカップをテーブルの上に置くと
「私、失礼するわ」と言った。
「ちょっと、待ってください。僕も今から空港に行かなくちゃいけないから、タクシーを呼んでいるので、空港まで一緒に行きましょう」とキースは言い、
「じゃあ、父さんまた」とベンの頬にキスをして、別れを告げた。
ジーナはベンにどういったものか、困り
「じゃあ、また」と言って、キースの後に続いて、逃げるように家を出た。
ベンはそのまま起きたばかりの頭が働かないといったふうにぼんやりと何も言わず、一人台所に取り残されてしまった。
空港への道、ジーナはキースに正直な気持ちを打ち明けた。
「本当を言うとね、私は、最初はベンと仲を取り戻せると信じて、刑務所に会いに行ったんだけど、ベンは余りに変わってしまっていて、とりつくしまがなかったわ。きのうはベンといて本当に楽しかったので、またベンと一緒になれるかもしれないという気になったんだけど、今朝のベンを見て、また自信を失くしたわ」
「父には今時間が必要なんだと思います。気長に父と付き合っていってくれませんか」
ジーナはキースの質問に答えないで、
「ベンたら、お酒を飲んだらあんなにおしゃべりで楽しい人なのに」と独り言のように言うと、目を窓の外にやった。遠くを見ているようで、本当は景色なんて何にも見ていない目だった。
それから空港までの道は二人は黙ったままそれぞれの思いに沈んでしまった。
ジーナはキースと一緒に空港でタクシーを降り、メルボルン市内行きのミニバスに乗った。メルボルンの空港には電車が通っていないので、自分で車を運転しない限り、ミニバスに乗るかタクシーに乗る以外ないのだ。年金暮らしのジーナにとってタクシー代は馬鹿にならない。家に帰った時は、もうお昼になっていた。余り食欲もなく、台所のテーブルに腰掛けていると、電話が鳴った。電話を取ると、ベンの声が聞こえた。
「ジーナ、出所祝いの食事に来てくれて、ありがとう。きのうは本当に楽しかったよ。今朝は君が慌てて帰ったので、お礼を言う暇がなかったからいえなかったんだけど」
「いいえ、私も夕べは楽しかったわ」とジーナは答えたものの、その後なんと言って会話を続ければいいのか、困ってしまった。
「これからも、時々会ってくれないか?」
刑務所に会いに行っても、全く嬉しい様子もみせなかったベンの言葉とは思えなかった。
「それはいいけど…」
「けど、どうしたんだ?」
「私、あなたが奥さんに対する罪意識から決して逃れられないのが分かったわ。そんなあなたを包み込んで愛せるほど、私は強い人間じゃないから、もう会わないほうがいいと思うんだけど」
電話を通してベンの失意が伝わってきた。長い沈黙の後、ベンはおもむろに言った。
「今度、二人でヨークに行ってみないか?」
「え?」
「僕もニーナの亡霊を逃れて新しい人生を踏み出すべきだと思い始めた。ニーナもきっとそれを望んでいたと思うし。君と一緒だったらきっとできると思うんだ。今すぐ返事をくれなくてもいい。僕達ヨークにいったら、きっとまた昔の僕達をもどせそうな気がするんだ」
「私、もうイギリスに帰って永住する気はないわ。可愛い孫だってここにいるんだから」
ベンがかすかに笑う声が聞こえた。
「馬鹿だな。勿論ヨークには旅行で行くだけだよ。僕だって今更イギリスに住む気はないから」
「それじゃあ、考えてみるわ」
電話を切った後、ジーナは久しぶりにベンに対する優しい気持ちがよみがえってきた。もしかしたら、私達、うまくいくかもしれない。そんな予感がし始めた。

著作権所有者:久保田満里子
 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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