Logo for novels

百済の王子(10)

~~豊璋には、次々と不幸が襲い掛かった。騎射の見学をした2週間後の5月21日に、百済から一緒に来た 豊璋の従者が病に陥り、急死した。従者とは言え、生まれたときからいつも側にいて 豊璋の面倒を見ていた者だったので、従者の死は、 豊璋には実の父を亡くしたようにこたえた。それに追い討ちをかけるように、その翌日、百済から一緒に連れてきた2歳の 豊璋の息子が死んだ。1ヶ月の百済から日本への船旅は、年寄りや子供にはこたえたようである。子供が死んだと知らされ、 豊璋も 豊璋の妻も、呆然としたが、子供の遺体のある部屋に近づこうともせず、安曇比羅夫の家の者を驚かされた。安曇比羅夫の妻は、
「自分の子供の遺体もみようともしないとは、 豊璋様は非情でございますな」と言うと、百済にいて百済の風習に詳しい比羅夫は、
「そのようなことを言うではない。百済の習慣なのだ。 豊璋殿も奥方も、お子の遺体を見たいのに、その気持ちを我慢されているのだ。子を失って悲しいのは、どこの国の者でも同じことだ」と、妻をさとした。
 豊璋は従者、そして子供を亡くして、意気消沈としており、安曇の家は縁起が悪いと判断したのか、その二日後、安曇の家を出て行った。行き先は、河内長野市大井で、百済人の多い土地であった。その時、子供の遺体は、従者に命じて、石川に葬らせた。蘇我蝦夷や大海人皇子からは、弔辞が届き、倭国で心を許せるものがいないと孤独感に打ちのめされていた豊璋の心を少し慰めた。
子供が死んで2ヶ月たち、夏が巡ってきて、せみの鳴き声がうるさく感じられ始めた頃、皇極天皇から、百済の使者、大佐平智積(ちしゃく)が来たので、宴を設けたいから、 豊璋にも来席するようにと、招待状が来た。 豊璋が天皇に拝謁したのは4月8日であったから、天皇に会うのは3ヶ月ぶりのことであった。智積は、難波に到着した後、すぐに 豊璋に挨拶に来たが、その時義慈王は、新羅との国境にある40余りの城を討ち取り、勢いさかんであると 豊璋に報告した。もっとも実際に軍を指揮し連勝をおさめていたのは、義慈王の右腕であるケベック将軍であった。 豊璋の知っているケベックは、無骨な軍人と言う感じで、政治にかかわることなく、義慈王の忠臣というべき人物であった。新羅はこの時、善徳女王がおさめていたが、義慈王の母は、善徳女王の妹で、義慈王にとっては叔母になる人であった。
7月22日、 豊璋が皇極天皇主催の宴に出席するために宮殿に行った。以前は二人だけで会ったのだが、この度は大勢の客が招かれていた。宮殿の庭を見ると、百済の宮殿とよく似ているので、驚いた。宮殿の中庭には石が敷き詰められた池があり、池の真ん中に、石のモニュメントのようなものが見える。百済にもある須弥山石である。大きな石が三段に重ねられており、3メートル近くありそうなそのモニュメントには、山の形がたくさん彫りこまれている。そしてそのモニュメントの両脇から水が流れ出ている。噴水である。案内をした天皇の臣下に聞くと、「これは百済の石細工人が作ったものでございます」と言うので、自分のいた宮殿の庭と似ているのに、納得した。
 豊璋の席は、天皇の席のすぐ下に設けられていた。そしてそこで、また大海人皇子に再会した。大海人皇子は、皇子の隣に座っていた精悍な感じの青年を紹介してくれた。
「兄の中大兄皇子です」
 豊璋もこの頃になると、少し倭国の内情も分かるようになっていた。中大兄皇子は、皇極天皇と舒明天皇の長男で、皇極天皇を継ぐ人物と考えられていたことを知っていた。もっとも皇極天皇は舒明天皇とは再婚で、前夫との間に子供がいたから皇極天皇にとっては長男とは言えない。また舒明天皇には蘇我蝦夷の妹との間に中大兄皇子の兄にあたる皇子がいたので、舒明天皇にとっても長男とはいえないが、舒明天皇と皇極天皇の間にできた子供3人のうちの長男と言うことである。
中大兄皇子は、大海人皇子が屈託のない陽気な皇子であるのとは対照的に、腹の中が読めそうもない印象を、 豊璋は受けた。
その宴では、皇極天皇が、
「力の強い者に、相撲をとらせてみよ」と言われたので、力自慢の男が3人名乗り出て、相撲を取る事になった。 豊璋にとっては、見たことのない者たちの相撲ではあったが、筋肉隆々とした男たちが目の前で土俵の土を蹴飛ばし、取っ組み合うのを見るのは、迫力のある光景であり、久しぶりにアドレナリンがみなぎった。
酒が入って、宴も興に乗ってくると、庭に出て踊りだすものもいて、 豊璋は久しぶりに心がほぐされた。
その晩、智積は、 豊璋の邸宅に行き、門前で3度ひざまづいてはひれ伏し、拝礼し、 豊璋に敬意を表した。その2週間後に、智積達は、大船と3艘の寄木船を天皇より贈られて、帰国の途に着いた。智積たちが倭国を離れるのを見送った豊璋は、百済の地に流刑されている母や妹のことを思い、ホームシックに陥った。その晩、突然雲行きが怪しくなり雷が激しく鳴り響き、 豊璋は雷の音で目が覚めた。風雨も強くなり、智積たちの乗った船のことが案じられた。案の定、翌日、 豊璋の元に、智積たちの船が岸にぶつけられ、大破したと言う知らせが届いた。幸いにも智積達は命に別状はなく、再び8月26日に、倭国の用意した船に乗って、無事出航して、百済の国に帰っていった。
豊璋が大海人皇子と一緒に狩に出かける約束が実現したのは、翌年の5月に入ってからのことであった。


著作権所有者:久保田満里子

関連記事

最新記事

カレンダー

<  2026-10  >
日月火水木金土
        01 02 03
04 05 06 07 08 09 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

記事一覧

マイカテゴリー