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百済の王子(20)

豊璋は、後に乙巳の変と呼ばれる中大兄皇子の蘇我入鹿殺害事件の3日後に大海人皇子の訪問を受けた。 豊璋は、大海人皇子の到来を家臣が伝えられた時、久しぶりに自然と顔をほころばせた。蘇我氏の滅亡で、後ろ盾を失って、不安に思っていたところに、権力を手中にした中大兄皇子の弟である大海人皇子の訪問は、一抹の不安を取り除いてくれた。
大海人皇子は 豊璋の顔を見ると、いつもの屈託のない笑顔を浮かべて、 豊璋が用意した上座の座布団の上に座った。
「 豊璋殿は、先日蘇我入鹿の最後を見届けられたと聞きましたが、驚かれたことでしょう」と、大海人皇子は 豊璋を慰めるように言った。
「はい。まさか、あんなことが起こるとは予想だにしませんでした。大海人皇子様は事前に知っておいでだったのですか?」
「いや、我も知らなかった。兄上はなかなかの策略家。事前に私に言えば、どこかで秘密がもれると思ったのかも知れぬ」と、笑った。
「そうでしたか。皇極天皇は、譲位されるとうわさで聞きましたが、本当でしょうか?」
「それは、本当だ。母君は、ひどく心を痛められている」
 豊璋は、それを聞くと、蘇我入鹿と皇極天皇は愛人関係だったといううわさはなまじ嘘ではなかったように思えた。
「それでは、どなたがおつぎになるのでしょう」
「さあ、それは、母君が決められることだが、古人大兄皇子か軽皇子であろう」
古人大兄皇子と言うのは、中大兄皇子と大海人皇子の父である舒明天皇と、蘇我馬子の娘の法提郎媛(ほていのいらつめ)の間にできた皇子である。つまり、皇極天皇にとっては、継子になる。一方、軽皇子は皇極天皇の実の弟である。豊璋にとっては、意外な人選だった。
「私はてっきり中大兄皇子がおつぎになるものとばかり思っていましたが…」
「あんな、生臭い事件を起こしたばかりだ。豪族からの反発は強いだろう。兄上が即位されれば、蘇我氏に追従していた豪族達は戦々恐々としてまた反乱でも起こすやもしれぬ。いずれは兄上は天皇となることは間違いないが、ほとぼりが冷めるまで、古人大兄皇子か軽皇子があとをつがれるであろう」
 天皇家の内情をこんなに話してもいいものか、それにしても大海人皇子はあっけらかんとした人だと 豊璋は感心して聞いていた。すると、 豊璋の心のうちを読み取ったように、
「こんなことは、 豊璋殿が、わが国の政権争いには無関係の方だから言うんですよ」と言って笑った。確かに 豊璋には、蘇我氏が滅びた後はこれと言って親しい豪族もおらず、こんな話をする相手がいなかった。だから大海人皇子から聞いた話はどこにも漏れようがなかった。
一通り、乙巳の変の話が終わると、
「そう言えば、 豊璋殿が連れて帰った、あの奇妙な女子はどうしておりますか」と、セーラのことを聞いた。どうやら、大海人皇子の訪問は、豊璋の様子を見に来るだけが目的ではなかったようである。
「あの者は、離れに住まわせて、色々話を聞いております」
「それでは、あの者は、 豊璋殿が妾にされた訳ですか」と、にやにやしながら大海人皇子は聞いた。
「いや。話相手をさせているだけです」
と 豊璋は答えたが、大海人皇子は 豊璋の言葉を信じていないようだった。
「いや、なかなか美人ではありませんか。もしあの場に額田王がいなかったら、私のほうが妾にしたかもしれませんよ」と、半分本心、半分冗談といったふうに言った。そして、
「ところで、あの者の国はどこか、分かりましたか?」
と興味深そうに聞いた。
「それがよく分かりませぬ。しかし、随分百済や倭国と違う国のようです。女の宰相もいると言っていました。もしよければ、ここに呼びましょうか?」
「そうだな。もう一度会ってみるのも悪くないな」と、大海人皇子は快活に言った。

著作権所有者 久保田満里子
 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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