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百済の王子(34)

 セーラは、「豊璋が妻を持てば、自分の居場所がなくなってしまう。それに豊璋が百済に帰ったら私は一人になってしまう」と思うと、いても立ってもいられなくなった。 豊璋の煮え切らない態度にも失望させられた。 豊璋に会ってから、一度も21世紀に戻りたいとは思ったことがなかったのに、今日初めて、21世紀に戻れるものなら、戻りたいと思った。

豊璋が百済に帰って、そばにいなくなる人生をこの右も左もわからない土地で一人暮らすことを考えると耐えがたく、いてもたってもいられなくなった。「どうしよう、どうしよう」と、まるでおりの中の熊のように、部屋の中をぐるぐる回りながら、セーラは考えに考えた。そして考えたあげく、一つの結論に達した。あの道に迷った場所に行ってみようと思い立ったのだ。

もし21世紀に戻れるなら、あの場所しかない。そう決心すると、すぐに旅支度をして、豊璋に手紙をしたためた。書く手が何度も止まった。豊璋と過ごした楽しい思い出がドッとのセーラの脳裏に押し寄せた。そのたびに涙がぽたりと紙の上に落ちるので、慌てて目をぬぐったが、すぐにまた新たに涙があふれ出て、セーラを困らせた。

夜遅くなって人目が無くなるのを待って、セーラは、そっと屋敷を出た。月夜の明るい晩で、明かりをつけなくても、歩けそうだった。音を立てないように門をそっと開け、外に出ると、草むらの中に一本の細いあぜ道が月明かりに照らされてどこまでも続いているのが見えた。セーラは、どんどん南に向かって道を歩いた。

一度だけ、 豊璋の屋敷を振り返った。静寂に包まれた屋敷が、遠くに見えた。心の中で「さようなら、 豊璋様」と言うと、また 豊璋の屋敷に背を向けて、ひたすら歩いた。涙がぽたぽた落ちたが、セーラは涙をぬぐおうともしなかった。

翌朝、 豊璋は目が覚めると、夕べのセーラとの諍いを思い出した。 豊璋にはセーラがどうしてそんなに腹を立てるのか、いまだに理解できなかったが、後味は悪かった。自分が謝る必要はないと思うのだが、わだかまりを何とかなくしたい。そう思って、セーラの部屋を訪れた。

セーラの部屋の前で、「セーラ、おるか?」と 豊璋は声をかけたが、返事がない。思い切って、戸をあけて部屋をのぞくと、セーラはいなかった。ふとんも片付けられていて、部屋の真ん中に手紙があるのが目に入った。何だか不吉な予感がして、すぐに手紙を手にとった。手紙を読んでいくうちに、 豊璋の顔色が変わった。

すぐに「誰かおらぬか!」と大声で下男をよびつけると、
「セーラが屋敷を出て行ったようだ。探せ!」と、命じた。
下男たちが、 豊璋の命令で、近所を探し回ったが、セーラの姿は、どこにも見えなかった。

その晩、 豊璋は、セーラが戻ってくるのではないかと、門の前に一晩中火をともして置くようにと、家来に命じた。しかし、翌日になっても、セーラは戻ってこなかった。 豊璋は初めてセーラを失った哀しみに襲われた。

いつも側にいるのが当たり前だと思っていたので、心に大きな穴があいて、そこに寒風が吹き付けるような痛みを感じた。

 

著作権所有者: 久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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