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百済の王子(40)

第八章 その後のセーラ

 セーラは、あの飛鳥村の道を、月の明かりをたよりにテクテクと歩いた。7世紀の世界に迷い込んでしまった、あのタイムスリップした場所へと向かった。

そして、ついに、あの不思議な道に出たのだ。ともかく、歩いて歩いて、足が棒のようになって、一歩の足を踏み出すのもつらくなるまで歩いて、膝から崩れ落ちてしまった。そして、あたりを見回すと、何だか様子がおかしいことに気づいた。遠くに見える家々に明かりがついていたのだ。飛鳥の時代には、明かりをともすために使う漁油は高価なもので、豪族の家でしか、使えない。21世紀の時代に戻ったのではないかと、期待に胸を膨らませて、セーラは明かりの見える方向をめがけて、またゆっくりと足を引きずるようにして歩き始めた。21世紀の時代に戻りたい。ママとパパに会いたい。望郷の念が段々高まってきた。明かりの見えるところまで行かないうちに、突然道路に迷い出た。道路は舗装されていた。ついに私は21世紀に戻ったのだと思うと、セーラは涙がこぼれはじめた。が、突然、ブブーと車のホーンを鳴らす音が後ろから聞こえ驚いて後ろを見ると、車のヘッドライトが光っていて、まるで猛獣の目玉のようにすごいスピードで近づいているのが見えた。慌てて、道端に飛びのくと、その車はそのまま風を残して去ってしまった。ママとパパに連絡するためには、ともかく誰かと話さなければと、道の側の畑の向こう側に見える家に向かった。今は何時ごろなのだろうかと、セーラは思った。夜通し歩いて行き着いたところなのだから、もう朝なのだろうということくらいしか見当がつかなかった。

やっと明かりのついた家の前にたどり着くと、セーラは玄関の呼び鈴を鳴らした。鳴らしてしばらくして、「はーい、どなたですか?」と女の声がして、やっとドアが開けられ、40代の主婦らしい女がドアから顔を覗けた。その女は、セーラを見ると、驚いた顔をした。

「あなたは?」と聞いた。その女の声を耳の遠くに聞きながら、セーラは気を失ってしまった。今までの緊張感から急に解放されたためだろう。

次にセーラが目を覚ました時は、白い天井が見えた。しばらく、ここはどこだろうと考えていると、「気がつかれましたか?」と、可愛い女性の声がした。見ると、看護師だった。

「ここはどこですか?」

「奈良市立病院です。先生を呼んできますね」と、看護師が部屋を出て行こうとするのを呼び止めた。

「今年は何年ですか?」

看護師はそれを聞くとへんな顔をして答えた。

「2015年ですけど…」

それを聞くと、セーラは心安らかになった。浦島次郎のように、自分の生きていた時代をとっくに過ぎていたら、どうすればいいのか途方にくれてしまっただろう。2015年ならパパもママも生きている。そうだ、パパとママに連絡しなくっちゃと、セーラは一瞬のうちに考えた。

「パパに連絡してもらえませんか?」

「勿論です。今先生を呼んできますからね」と言って、看護師は急ぎ足で部屋を出て行った。するとものの5分もしないうちに、30代くらいの医者が看護師を従えて、部屋に入ってきた。

「気がついたようですね」と、医者から言われて、

「ええ」と言うと、

「あなたは一週間もこん睡状態に入っていたんですよ。今日が何月何日か分かりますか?」と聞かれ、セーラは首を横に振って、「分かりません」と答えると、医者の顔が曇った。

「今日は4月20日ですよ」と、言われ、自分がタイムスリップした時間は全く今の時間と加算されていないのに気がついた。あれは、夢だったのだろうかと、セーラの頭は混乱した。

「この病院に来たとき、何かのイベントにでも参加していたのですか?」と聞かれ、

「はあ?」と不思議な顔をしてセーラは医者を見たら、医者が

「まるで天女のような衣装を着ていましたからね」と、言うので、思わず笑いがこみあげてきた。セーラは自分が額田王にはじめてあった時も、額田王が仮装しているのだと思ったのだが、今度は自分がそう思われる番になったのかと、笑えてきたのだ。

「何か、おかしいことを言いましたか?」と医者が少し気分を害したようだったので、あわてて

「いいえ。ちょっと思い出したことがありましたので」と、言ったものの、なんと説明をすればいいのか、困ってしまった。そして、イベントに参加したと言うのが、一番皆の納得がいく説明だと気がついて、

「先生のおっしゃるとおり、イベントに参加して帰りに道に迷ってしまったんです」と、答えた。すると、医者も看護師も納得したような顔をして、

「そうですか」と言って、それ以上セーラを問い詰めなかった。

それから、オーストラリアの両親に連絡をとってもらい、両親がオーストラリアから飛んできた。

母親は病室のベッドで横たわっているセーラを見ると、黙って抱きしめた。そして、

「あなたがトムとのことで悲観して、自殺でもしたのかと思って心配していたのよ」と、セーラの耳元でささやいた。セーラはその時初めて、トムとの失恋で日本に来たことを思い出した。飛鳥にいたときトムのことをすっかり忘れてしまっていたので、久しぶりに聞くトムと言う名前もなんだか知らない人の名前のように思えた。

「ママ、トムとのことは、すっかり忘れたわ。安心して」と答えた。その後、「他に好きな人ができたから」と、心の中でつぶやいた。

セーラは飛鳥の時代の生活を誰にも話すことができなかった。話したところで、誰も信じないだろう。

両親から、

「なんで、あんな格好していたの?」とか「あんたの持ち物はどうしたの?」と聞かれても、持ち物は盗まれたとしかいいようがなかった。両親がクレジットカードをキャンセルしてくれたが、あのクレジットカードが使われることは決してないのだがと苦笑した。スーツケースは、ホテルにそのままあったので、衣服などはそのまま残っていた。一番大変だったのは、パスポートを紛失したので、オーストラリアの領事館に連絡して、再発行してもらうのに、また一週間待たなければいけなかったことだった。だからセーラが無事オーストラリアに戻ることができたのは、それから2週間後であった。父親は、仕事があるからと先に帰ってしまった。

母親と乗った飛行機がメルボルン空港に近づくと、セーラの目がうるんだ。懐かしいメルボルン。緑色の木々。蛇のようにくねった高速道路。整然と立っている家々。「やはり、自分の故郷が一番」と、思って空港の建物を出ると、咳き込んだ。飛鳥の空気と比べて、余りにも空気が汚れているのだと気づいた。

メルボルンに戻ってから、また以前の生活が戻ってきた。朝目覚ましで起きて、歯を磨いて、洗顔石鹸をつけて顔を洗う。今まで自動的にしていた行為が、新鮮なことに思えた。飛鳥では、体を洗う事だってめったになかった。なんて不潔な生活をしていたのかと、今になって思うが、あの世界では皆がそうだったから、当たり前のことだった。時折、フラッシュバックのように、豊璋のことが思い出され、豊璋にもう会えないのだと思うと、胸が締め付けられた。しかし、その回数が段々減ってきたある日、セーラは突然、何も食べられなくなった。食べ物のにおいをかぐだけで、吐きそうになるのだ。どうやら食あたりのようだが、すぐに治るだろうと思った。しかし、3日たっても同じ状態だった。4日目に医者に行って、思わぬことを言い渡された。

「おめでたですね。妊娠3ヶ月です」

セーラを取り巻く状況を知らない医者は、喜ばしそうにセーラに告げたが、セーラは信じられなかった。 豊璋と過ごした16年もの間、妊娠しなかったのに、今頃になって妊娠するなんて。一瞬頭が真っ白になった。その後頭に浮かんできたことは、 豊璋との子供を生むべきか、それとも堕胎すべきかと言う選択である。オーストラリアでシングルマザーとして生きるのは、日本に比べると楽だろう。シングルマザーに対する偏見は日本ほど強くないし、社会保障も行き届いている。しかし、それでも一人で子供を育てる自信が、セーラにはなかった。

著作権所有者 久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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