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おもとさん世界を駆け巡る(25)

タンナケルから離縁を申し渡されたおもとさんは毎日をうつうつと暮らしていた。そんなおもとさんをささえたのが、鏡五太夫と言う、太神楽師だった。太神楽師は、獅子舞などの踊り、ナイフや輪を投げたりする投げ物、皿や傘を回す回し物をしたり、掛け合い茶番や、太鼓など、いろんな曲芸ができる。だから、タンナケルのサーカス団の団員の募集に応じて、アメリカに一緒に行った仲間だった。五太夫は、神奈川県で91番目に発行された旅券をもって、おもとさんやタンナケルと共に、アメリカに渡り、イギリスにも一緒に渡って来た。五太夫がサーカス団に加わったのは27歳の時だった。その前は大阪で舞台に立っていた。五太夫は、最初おもとさんに会った時から、美人のおもとさんに対して憧れの気持ちを持っていた。はっきり言ってひとめぼれをした。しかし支配人の妻で3人の子持ちのおもとさんは、自分の手の届かない存在だったから、いつも遠くからおもとさんを眺めるだけだった。しかしタンナケルから冷たくあしらわれて、楽屋の片隅で目元の涙を拭いているおもとさんを見て、思わず声をかけたことから、二人は親しくなっていった。

おもとさんと五太夫の関係が決定的になったのは、タンナケルがおタケさんと長崎で結婚式を挙げて5人の曲芸師と共に「タイクン」という一座を組み、オーストラリアに向けて旅立った後だった。

余談になるが、この「タイクン」一座の曲芸師たちが、オーストラリアに行った初めての日本人となった。「タイクン」一座は1867年11月14日にメルボルンに上陸したのだが、その一か月後にはレントンとスミスと言う日本人の曲芸師を引き連れた一座がメルボルンに上陸しているので、もし「タイクン」一座の到着が遅れていたら、オーストラリアに来た初めての日本人とはならないところであった。つまり、この頃世界を興行して歩く日本人の軽業一座はかなりあったということである。タンナケルたちは、メルボルンを皮切りに、ビクトリア州第二の都市ジーロング、そしてニューサウス・ウエールズ州の州都のシドニー、そしてシドニーからさほど遠くないところにある地方都市ニューカッスルなど、オーストラリアで興行したあと、ニュージーランドに渡った。一座の見世物は、いくつものボールを上に向かって投げあげていく曲芸、ゆるい綱を渡っていく綱渡りや宙返りで、三人の男たちが曲芸を担当した。またオタケサンを含めた女性三人は、三味線の音に合わせて歌ったり踊ったりした。この一座は、タンナケルが英語で日本の習慣などを英語で紹介するところが他の一座と変わっていた。タンナケルは軽業はできなかったが、簡単な手品などは披露した。一行はニュージーランドから1868年の10月にオーストラリアに舞い戻りメルボルンをはじめ、シドニー、アデレードの大都市以外にも、ビクトリア州のバララットから北西71キロのところにあるアヴォカや南オーストラリア州のアデレードから45キロ北にあるゴーラーや77キロ北にある田舎町でも興行をした。翌年の10月6日まで興行を続けて、再びイギリスに戻ってきた。(参考文献 Bridging Australia and Japan: Volume1, 3. The Lady Rowena and the Eamont: The 19th Centry by DCS Sissons
ちょさk

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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