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おもとさん世界を駆け巡る(最終回)

トモキチが去った後、公演に出演できるのは、ゴダイユとマツの二人だけになってしまった。これでは一座として興行することは無理である。そこで、二人は1899年にはオーストラリアで二番目の規模を誇るフィツジェラルド・サーカスに加わった。オーストラリアで一番大規模なワース・サーカスが海外興行をしている間、フィッツジェラルド・サーカスは名声を上げて行った。このサーカスは馬や象、ライオン、サルなど動物を使った曲芸も多く、大きなテントをはってあらゆる町で興行をした。このサーカスはオーストラリア人のみならず、中国人やジャワ人も加わっていて、国際色豊かなサーカスであった。ゴダイユ一座は巧妙なお手玉を披露したり、逆立ちをしてたまま物を動かすなどの素晴らしい曲芸を披露して、観客を沸かせた。
二人が興行に出かけている間、おもとさんはミニーの家の近くに住み、安泰な日々を送っていた。そんなある日、イギリスにいる長女のネリーから手紙が届いた。そこには長男タンナケルが1899年6月17日に死んだと書かれていた。息子はその時まだ40歳。詐欺の罪で服役中、刑務所で肺結核になり、喀血して死んだということだ。どうやら、父親と不仲だったため、不幸な人生を送るはめになったようだ。父親との不仲は自分のせいかもしれないと思うとおもとさんは自責の念にかられた。息子が虐待されたことも知っていながら、手元に引き取らなかったことが悔やまれてならなかった。しかし、この思いは自分一人の胸におさめて、ゴダイユにも何も言わなかった。
おもとさんの不幸はそれで終わらなかった。その翌年、今度はゴダイユが腎臓炎を患い、この世を去ってしまったのである。享年57歳だった。
おもとさんはそれから16年生き永らえたが、幸福な晩年だったと言わなくてはならないだろう。メルボルンのアーマデールに古澤基に嫁いだミニーの一家と住んだ。ミニーは三人の娘に恵まれた。おもとさんは73歳になっていた。風邪をこじらせて肺炎にかかり、娘三人と孫娘三人に看取られながら、亡くなった。
 娘たちは第二次世界大戦が始まった時、両親が日本人だったがために、苦しい生活を強いられたのだが、娘たちの物語は、またいつかお話することにしよう。


参考文献
倉田喜弘「1885年ロンドン日本人村」  朝日新聞社 1983年
小山謄  「ロンドン日本人村を作った男 謎の興行師タナカー・ブヒクロサン」 
藤原書店 2015年
長友淳編 「オーストラリアの日本人 過去そして現在」 法律文化社 2016年
プライス町子「セント・キルダ墓地に眠る日本人」『オーストラリアの日本人―世紀を超える日本人の足跡』全豪日本クラブ 1998年
Bridging Australia and Japan: Volume1, 3. The Lady Rowena and the Eamont: The 19th Centry by DCS Sissons

著作権所有者:久保田満里子

 
 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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