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船旅(24)

ニールが咳き込んだり苦しそうに呼吸をしているのを見ていると、テレビでも見て気を紛らわす気にもなれず、持ってきたコートを着込んで、バルコニーに出て外の様子を眺めて待ち時間を過ごした。本当なら、ニールの汗を拭きとったり、何か看護ができれば少しは気が休まるのだろうが、できるだけ病人との接触は避けろと言われている今、ニールの側に行くのもためらわれた。腕時計を何度も見たが、時間が進むのが極端に遅いこんな時は5分でも長く感じる。鼻水が出るので、拭き取るので忙しいし、頻繁に鼻をこするので、鼻の周りがひりひりし始める。外では、多くの防護服を着た人のうごめくのが見える。最初に担架に乗せられた人が下りてくるのを見た時は11時を回っていた。それから次々と担架が運び出され、すぐに救急車に乗せられて去っていく。
 部屋をノックする音が聞こえた時は、やっと助けが来たのかとはやる気持ちでドアを開けたが、足早に立ち去る乗務員の後姿が見えるだけで、ドアの外には昼食ののったトライが置かれていた。トレイを部屋に取り入れたが、ニールは呼吸するので精いっぱいの様子で、「お昼ご飯食べない?」と問いかけるのもためらわれた。光江自身も食欲もなく、サンドイッチを一口かじって、皿に戻した。
 それから一時間たった頃、部屋のドアをノックする音が聞こえた時は、今度こそ、救急隊員でも来たのではないかと、急いでドアを開けた。
ドアの外には、防護服に身を固めた男と看護師が立っていた。
 光江はやっと助けが来たと思うと安堵のため息をもらした。
「ご主人がコロナ感染の疑いがあると連絡を受けたので、検査に来ました」と、男が言う。
「どうぞ」と言って二人を招じ入れる間に、光江はコンコンと咳をし始め、咳が止まらなくなった。男は、警戒するような目で光江を見て、
「あなたも感染の疑いがありそうですね。検査しましょう」と言った。
「ともかく、主人は高熱にうなされて、息も苦しそうですから、主人の方をお願いします」と、言った。
医者と思われる男は、すぐに綿棒を出し、ニールの鼻奥に突っ込み、ニールの鼻の粘液を取り出して、ビニール袋に入れて密閉した。その間、看護師がニールの熱を測って、「38.9度です」と医者に言った。すると、医者は難しい顔をして、
「感染の疑いが濃いから、すぐに病院に運びましょう」と言って、無線で担架を運ぶように指示した。
そして光江に向き直ると、光江の鼻の粘液も取り、ビニール袋に入れた後、
「あなたもずっと部屋に一緒にいたとなると、感染の疑いが濃いので、ご主人と一緒に病院に行ってください。ともかく検査結果が分かるのは明日ですから、結果が出るまで、お二人を隔離する必要があります」と言った。
光江は、ここでニールだけ病院に運ばれて、一人取り残されるのではないかと言う恐れから解放されて、ほっとした。
医者は書類に色々書き込んで、光江に渡し、
「患者が多いので、お二人を残していきますが、担架がすぐ来るはずですから、来た人にこれを渡してください」と言って、部屋を出て行った。
光江は、治療を施してくれるのではないかと期待していたのに、検査だけで部屋を出て行った医者たちを恨めしく思う間もなく、部屋がノックされ、これまた防護服に身を包んだ男二人が担架を持ってきた。二人のうちの一人に、医者から手渡された書類を渡すと、手慣れた様子でニールを担架にうつし、運び始めた。光江は手渡されたマスクをして、ニールを乗せた担架の後を追って行った。その間ニールは一言も発していないのをみると、よほど容体が悪そうだった。
船の外にでると、辺りは喧騒に包まれていた。冬の晴れて空気がひんやりしてピンと張りつめた中、病人を乗せた救急車がけたたましいサイレンを鳴らして次々に去り、病人を病院に運び終えた救急車が戻って来て停まって、新たな患者を運び入れる準備をしていた。そんな中、医療関係者と思われる人たちが、走り回って、緊迫した空気が流れている。
ニールは救急車に乗せられ、光江も一緒に乗るように言われ、ニールに付き添った。ニールは呼吸器を取り付けられ、目を閉じたままで、身動きもしない。顔には血の気がない。
「ニールが死んでしまう」ニールの顔を眺めていると、そんな恐怖が襲ってきた。そして、光江も咳が止まらなくなり、「私達、このまま死んでしまうのかしら」と思い始めた。


ちょさく

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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