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増岡ヒロミさんの物語(5)

こちらでは、女だからと馬鹿にされることはないし、この国は自由でいいですよね。
55歳でお風呂屋を始めました。その頃フィッツロイに住んでいたのですが、町に近い所を探しました。水を使うので、2階建ては避けて、30軒近く見て歩きました。30センチのコンクリートの床がある、重機の入ったような工場が売りに出されていたのに出会った時、ここだと思いました。一方通行で、角地でなくてはいけないとか色々条件があったのですが、その条件にぴったり合う所だったんです。そこを見た時から、ここでなくてはいけないというような確信がありました。そこに決めてからは市役所の許可を取らなくてはいけなかったのですが、許可を取ることは大変だと覚悟していたわりには、それほど苦労をしませんでした。オープンしてからのほうが大変でした。オープン当時は、オーストラリア人からは売春宿だと思われていましたから。お風呂屋を開いたコリンウッドは売春宿が多い所でしたから。おまけに裸で入ると言うのは、オーストラリア人には抵抗があったようで、オープンして半年くらいは、毎日のようにお客さんと喧嘩していました。「脱げ」「脱がない」と。そんな時、テレビの「get away」と言う番組で、紹介したいと言う話が舞い込んできました。日本で外人ハウスをやっていた時から、テレビ局は好きではなかったので、一旦はお断りしたんです。でも20万ドルくらいの宣伝の価値があるんだよといわれ、そんなに儲かるようなことならやりますって。お金もそうですけど、テレビに出たため、お風呂屋が売春宿ではないと言うことが一番の宣伝になったのが、良かったですね。その後は毎日じゃんじゃん電話はかかって来るし、人が並ぶくらいの反響がありましたよ。GETWAYが放映されたのが9月頃でしたが、その年のビジネス番組として10番以内の視聴率でした。それで、確実に人に知られるようになりました。それがお風呂屋を始めて最初の年の出来事でした。本当に運が良かったと思っています。
 日本でお友達に紹介されたお風呂屋さんの見学に行った時言われたのが、1に掃除,2に掃除,3,4がなくて、5に掃除で、掃除との付き合いだから、掃除が嫌いだったらやめなさいと言われました。掃除は好きではないけれど、お風呂屋をやりたいと言う思いの方が勝ちましたね。最初は普通のお風呂屋さんみたいに3時から夜の11時まで開けましたが、その時は朝の6時くらいから夜中の12時まで仕事をしましたね。最初は、スタッフもいなかったし、一人でやりました。指が曲がってしまうくらいの水との戦い、掃除との戦いでした。でも人に知られて繁盛してくるとスタッフも雇うこともできました。それにいろんなお客さんとの出会いがあったり、色んな人が助けてくれたりしました。
 お風呂屋を始めた時は娘が大学に行き始めた頃でしたが、娘は「お風呂屋をやるなんて、冗談ではない」と言って、日本に帰ってしまいました。私はメルボルンが好きで来たけれど、娘は自分の意思でメルボルンに来たわけではないと思っていたようです。お風呂屋をやり始めて、2,3年たって永住権がとれたので、娘に知らせても、「勝手に永住してください」と言われました。6年くらいたった頃、娘から「ママ、そちらに行って、お風呂屋を手伝いたいんだけれど」と言われたけれど、「好きでもない仕事はやらなくてもいいから」と言いました。でも娘は日本はもうたくさんだと言う気持ちになっていたようで、メルボルンに帰ってきました。多分私も若い人を使うのが下手だったのでしょう。その頃は、喧嘩ばかりしましたね。段々お互いのことが分かって来た頃、娘から一つだけ約束してほしいと言われたのが、「他人の前で怒らないで」と言うことでした。その言葉は胸に結構こたえましたね。それからは陰では怒っても、人前では怒らないようにしました。それからは、段々仲良くなっていきました。娘は英語もきれいだし、日本語もしっかり教えたので日本語も問題ないので、お風呂屋の仕事を娘に任せました。

著作権所有者:久保田満里子

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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