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日本人戦争捕虜第一号(最終回)

シーンとしたいつもの夜と変わらないように思える午前1時45分。密やかにそれぞれの小屋に伝令が走った。「あと、15分です!」
 皆武器ともならないようなフォークやナイフ、野球のバット、野球のグローブ、そして毛布を持って、息をひそめて、突撃ラッパを待った。
 そしてきっかり午前2時。南の吹く突撃ラッパの音が高らかに収容所内に鳴り響いた。皆寝静まったと思われた小屋から、二、三百人のグループに固まった日本人捕虜が出て来て、有刺鉄線柵に向かって、「わあ!」と大声をあげながら、走り始めた。小屋に火をつけた者もいて、燃える火の明かりで、皆の狂気じみた赤い顔が浮かび上がった。オーストラリア側にとっては、青天の霹靂である。監視塔からオーストラリア兵が銃を打ち込んでくる。その弾丸を避けながら、有刺鉄線柵までたどりつけたものは、持っていた毛布を有刺鉄線に投げ上げ、柵をよじ登っていった。南は2度目のラッパを吹いた時、監視塔から一斉射撃を受けた。体中に痛みが走り、くるくる回りながら、その場に倒れた。それでも情け容赦なく弾丸が胸に撃ち込まれ、体中が血に染まった。それでも死ねなかった南は、助けに来てくれた仲間からナイフを借り、喉を掻き切って自決した。24歳の壮絶な死であった。
 この日本兵脱走事件は後に「カウラ暴動」と呼ばれた。日本兵約900名が脱走を試み、日本兵231名、オーストラリア兵4名の死者をだし、日本兵の負傷者は108名にも上る大惨事だった。
 この暴動で亡くなった日本兵たちの遺灰は、今カウラの日本人墓地に埋められている。南の墓の銘板には、
MINAMI TADAO 5-8-1944
と、書かれている。
暴動参加者が期待したように靖国神社にまつられることはなかった。
 豊島一の婚約者だった宮谷一子は、1942年、一が捕虜になった時点で、「戦死した」と伝えられた。しかし一の遺骨が帰って来たわけではない。一子は一のことが忘れられず、一生独身でとおす決心をした。だから色々持ち掛けられる縁談も全部断った。その彼女の決心を翻させたのは、一の姉、キクエだった。
「もう3年も経ったんよ。あんたが独身のままでいると、あんたに対して申し訳なくてしょうがないんよ。もう一のことは忘れて、新しい人生を送ってちょうだい。きっと一もそう願っとると思うよ」
すると、一子は答えた。
「それじゃあ、お姉さん、いい人を紹介してください。私はお姉さんがいいと思う人なら結婚を考えますけん」
 結局、一子はキクエの勧める男と結婚した。一子が、一が1944年まで戦争捕虜として生きていたことを知ったのは、1983年のことである。60歳過ぎて、孫もある穏やかな暮らしをしていた一子のもとに、そのことを知らせに来たのは、中野不二夫と言うジャーナリストだった。中野はあらゆる手立てを使って、南忠男なる人物の本名をつきとめたのである。中野の話を、一子は複雑な思いで聞いた。一子にとっては、一に対する思いは、遠い昔の思い出になっていたのである。

参考文献
中野不二男 「カウラの突撃ラッパ、零戦パイロットはなぜ死んだか」 文芸春秋社
永田由利子 「オーストラリア日系人強制収容の記録」高文研
Steven Bullard “Blankets on the wire” Australian war memorial
Harry Gordon “Voyage from shame- The Cowra breakout and afterwards”  University of Queensland Press
インターネット ウイキペディア 
豊島一 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%B3%B6%E4%B8%80
カウラ事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%A9%E4%BA%8B%E4%BB%B6

謝辞:物語の大半は中野不二男氏の本を基に書いたものです。著作権を心配しましたが、中野氏には掲載許可を頂き感謝です。

 

 

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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