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木曜島の潜水夫(36)

 1966年になると、モーテルのビジネスが軌道に乗り始めたので、トミーは、モーテルの経営は、ジョセフィーンに任せて、初めて、日本に帰ることにした。それまで、トミーは日本に一時帰国をしたくても、オーストラリアに帰ってこれなくなることを危惧して、一度も日本に帰ったことがなかった。オーストラリア国籍を取得したことで、オーストラリアのパスポートを手にすることができたので、日本からオーストラリアに帰るときも拒否される心配がなくなった。トミーは59歳になっていた。一度日本に墓参りに帰りたいと思っていたのが、実現したのだ。寿一の遺灰を持っての里帰りだった。
 41年ぶりに見る日本の変わりようには、目を見張るものがあった。飛行機は羽田に着き、羽田から故郷の串本に帰る時は、開通されてから2年目の新幹線に乗ったが、こんなに速い乗り物があるのかと、トミーは驚いた。東京駅を出ると、車窓からは近代的なビルが立ち並んでいるのが見えるが、あっという間に過ぎて行く。そしてしばらくすると、青々とした田園が広がり、遠くに見える山々は緑に覆われ美しかった。しかし故郷の有田だけは、変わっておらず、昔ながらの藁ぶき屋根の家々がトミーを迎えてくれた。実家では、90歳になる母親と、妹のマサエが迎えてくれた。家に着くとすぐに、今回の日本行きの目的だった墓参りをした。父親は鬼籍の人になっており、墓の前で、父親の葬式に出席できなかったことをわびた。そして、弟の遺灰を先祖の墓に入れ、しばらく、無言で頭を垂れた。自分の腕の中で死んだ寿一の青白い顔が思い出されて、自然と涙がこぼれた。その後は、親戚に会ったり、幼馴染に会い、多忙な日々を過ごした。酒を飲んで歌い、マサエの作ってくれた子供の時に食べ慣れた新鮮な魚をたっぷり使った家庭料理を思う存分食べ、日本の生活を満喫した。もう40年以上会っていなかった家族や親戚や幼馴染たちは、離れていた時間を一気に飛び越えたように心が通い合うものがあり、皆のおしゃべりや笑いは、心の安らぎを与えてくれた。英語で話す生活には慣れていたが、気兼ねなく紀州の方言を話せたためかもしれない。トミーは、もう母親とは生きて会えないだろうと思いながら有田村を出て、オーストラリアに帰って来た。母親は1974年に98歳で亡くなったが、思った通り、トミーは葬式に参列することができなかった。
日本から帰った後、トミーは5月5日には鯉のぼりを家の前でたなびかせたり、日本の祝日には、家の向かい側にオーストラリアの国旗と日本の国旗を掲げ、日本人であることの誇りを持ち続けた。

ちょsk

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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