恐怖の一週間(3)
更新日: 2024-08-25
「もう19年も前のことなのに、急にこんなことが起こるなんて、どうしてなんだろう」私は、誰かに電話をして救いを求めたいと思った。でも、誰に?夫のダンは、出張で昨日日本に出かけたばかりで、後1週間は帰ってこない。こんなことを友人達や日本の家族にむやみに言えば、皆の笑い者になるに決まっている。そうだ、アルバイト仲間の麗子なら、真剣に聞いてくれるかもしれない。でも、麗子に電話するのはためらわれた。麗子は言うに決まっている。
「それは、あなたが子供の供養を怠ったからよ。水木先生にお話して、お払いをしてもらってあげるわ。だから心配しないで。今日水木先生と一緒に行ってあげるわ」
そしてあの怪しげな新興宗教の教祖のような水木を連れてくるに違いない。麗子とは友達だが、麗子の信じている新興宗教にだけは巻き込まれたくない。私は理性と恐怖のはざまで、どうすればいいか考えた。しかし、結論がなかなかだせなかった。
そうするうちに、朝日が昇ってきた。外が明るくなってくるのを見ると、だんだん恐怖感が薄らいでいった。
「大丈夫。あんなの何かの偶然よ」
気を取り直すと、ベッドルームに行ってカーテンを開け、部屋を明るくして、血で汚れた布団カバーをはがし、洗濯機に突っ込んだ。
もう血のことは忘れたかった。私はいつものように朝ごはんを食べると、洗濯物を干し、今でも続けているお土産物屋のアルバイトに出かけた。
朝麗子を見かけ、「あのね、麗子」と麗子に話しかけたとき、店長から話をさえぎられた。
「今日は、朝ツアーが二つ、昼から3組はいっているから、皆がんばって売り上げを伸ばして頂戴」
そうだ、今日から日本はゴールデンウイークに入るのだ。その日のお店は忙しかった。ガイドに連れられた日本からのツアー客が、ひっきりなしに来た。だから、血のついた布団カバーのことも、堕胎をした夢も忘れることができた。その日の夕方になると、恐怖も薄らいで、結局麗子に何も話さないで、家に帰ってしまった。
しかし、夕方うちに帰り、外が段々暗くなり、夕飯を食べ終わった頃から、じわじわと今朝の恐怖感がよみがえってきた。
「また、あのおそろしい夢を見たら、どうしよう」
ふっと部屋の片隅に、小さな子供が立っていて、私を恨めしそうに見ているのではないかと思うと、怖くて仕方がない。
できるだけ恐ろしいことを考えないように、コメディーばかりを選んでチャンネルを回した。いつもは、笑えるコメディーも、今晩は少しも面白いとは思わなかった。テレビを見ているときにダンから電話があった。
「何か変わったことでもない?」と聞くダンに、
「別に。日本はどう?」
と、話をはぐらかし、一言も胎児のことは言えなかった。いえるはずがない。子供を中絶したことは、ダンには話していないのだから。
いつもは10時半にベッドにもぐりこむのだが、10時半になっても眠くならなかった。
ベッドルームに入るのがこわかった。新しい布団カバーをかけたものの、あの血のしみは記憶にべっとりまつわりついている。
やっと、眠くなったのが、12時。ベッドにもぐりこむと、すぐに睡魔に襲われた。ああ、これで、恐怖から逃れられる。
著作権所有者:久保田満里子
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