カウラ(1)
更新日: 2026-07-05
一度は行ってみたいと思いながら、なかなか足を運べなかったカウラ。やっと今年の8月、夫のハロルドと一緒に来ることができた。メルボルンから飛行機でキャンベラに飛び、キャンベラでレンタカーを借りた。キャンベラを出るとすぐに住宅地は途絶え、両側にユーカリの木が立ち並ぶ舗装道路を走ること2時間。時おり田舎町があって休憩することもできたが、カウラは内陸の交通の便がすこぶる悪いところにあった。カウラに来たかったのは、第二次世界大戦中、日本人捕虜の収容所があったからだ。もうすでに亡くなっていた母の父親は、ここに収容されたことがあったと母から聞かされていた。今ではカウラには収容所はなく、日本との友好をはぐくむため、桜の木の植えられた美しい日本庭園があるほかに、戦争中亡くなった日本人の戦争捕虜や抑留された日系人の墓地があると、ものの本に書いてあった。戦争捕虜としてカウラで3年過ごした祖父は、幸いにも日本に帰ることができた。しかし、母から聞いた話では、カウラで起こった暴動で生き残った祖父は、いつも生きて日本に帰ったことに罪悪感を持っていたそうだ。
カウラに来る前に、私はカウラの暴動に関して下調べをしてきた。それによると、カウラの暴動は、収容所が手狭になったため、下士官と兵士を分けて収容しようという話がオーストラリア側から出たことが引き金になって起きたそうだ。引き離されることに抵抗を感じた捕虜たちが、決起をするかどうか、秘密裡にトイレットペーパーにOXで投票をした結果、賛成80%反対20%の圧倒的賛成多数によって暴動を起こしたということである。1944年8月5日のことだった。捕虜には十分な食料も与え、自由に行動をすることを許すなど、捕虜が不満を持たないように細心の注意を払っていたオーストラリア軍にとっては、青天の霹靂であった。日本の兵士の持っていた武器は食事用のナイフとフォーク、それに野球のバットだけだった。皆一人でも多くのオーストラリア人の兵士を殺し、自決するつもりだった。午前2時、捕虜第一号だった南忠男の突撃ラッパの音とともに、各自毛布と武器を持って、ゲートに走った。毛布を使って有刺鉄線を乗り越えようとした者たちは、監視塔にいた看守に見つかり、機関銃でバタバタと倒されて行った。それでも、日本兵の数は圧倒的に多く、脱走を図った日本兵も多くいた。脱走した者の中には、逃げ切れないと分かって自殺を図ったものもいるが、ほとんどが、オーストラリア人の民間人の手によってとらえられ、収容所に舞い戻ったということだ。その暴動で死んだオーストラリア人は4名。日本人は231名だったという。
最初にお墓を見に行こうと言う私の提案で、カウラのホテルに荷物を置いた私達は、すぐに墓地に向かった。
ちょ






コメント