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EMR(13)

「何か僕おかしいことを言ったかなあ?」
「ううん。ただ、あなたの言っていることを聞いていると、あなたはEMRなしでも他人の心が読めるんだって、驚いているのよ」
「そうかなあ」とハリーはニヤッとした。
「店には僕も一緒に行こう。君がその男だと教えてくれたら、僕のほうが芝居をうって、名前を聞き出すよ」
 どんな芝居をうつつもりなのか理沙には分からなかったが、ともかく自分がその男の名前を聞き出す役目からまぬがれれば、理沙には何も言うことがない。話が決まると、二人はすぐに「ジーンズ・オンリー」の店に向かった。
 表からは小さく見えた店も、中に入ってみると奥行きがあって、かなり大きな店だった。中を見回したが、今朝の男の姿は見えなかった。理沙は失望したものの、気を取り直して、店の真ん中に山のように積み上げられているジーンズのバーゲン品を二人で漁った。すると、「どのサイズをお探しですか?」と背後で声がしたので振り向くと、白人の中年の太鼓腹の人のよさそうな男がニコニコしながら立っていた。
 「僕のウエストのはサイズは、確か八十センチだったけど、」とハリーが言うと、その男も一緒にサイズ八十のジーンズを探し始めてくれた。朝早いせいか、客は理沙とハリーしかいなかったので、手持ち無沙汰だったのだろう。店員は彼一人しかいないのかと思っていると、表から、今朝の男が入って来た。理沙の胸の動悸が激しくなり、チラッとハリーのほうを見ると、ハリーの目は「あの男か?」と聞いているように見えた。理沙がかすかにうなずくと、ハリーはその男に向かって、「やあ、アブドゥーラじゃないか」と大きな声で呼びかけ、握手をするように手を差しだした。理沙があっけにとられていると、その男は当惑したように、「僕はアブドゥーラじゃないですよ。人違いですよ。僕はあなたを知らないし」と言う。
「え?アブドゥーラじゃないって?じゃあ、君の名前はなんていうんだ?」
「ムハマド・ラシードって言うんです」
「へえ。似た人もいるもんだなあ。いや、失敬。てっきり僕の友人の知り合いのアブドゥーラかと思った」とハリーが謝ると、ムハマドは「僕達アラブ人の顔は、白人の人には同じように見えるんでしょうかねえ」と苦笑いした。
 ハリーはその後ジーンズを一本買い、二人は店を出た。店を出ると、すぐに理沙が言った。
「あんな芝居をうつなんて、思いもよらなかったわ」と言うと、
「僕の芝居もまんざらじゃないだろ?」とハリーは機嫌良さそうにいった。
「よく、あんなことを思いつきましたね」
「いや、君とカフェで話している時に、僕の友達の話を思い出したんだよ。そいつは言語学者でね。オーストラリア人の中でHをエイチと言わないでヘイチと言う人たちがいるけれど、ヘイチと発音するのは、労働者階級の人だと仮説を立ててね、電話帳で職業別に十人ずつ名前のイニシャルがHの人を選んで、電話をしては、『あなたはM.ジャクソンさんですか』なんて、わざと違ったイニシアルで名前を聞いたんだそうだ。そうすると、向こうはHの音を強調して「いやH.ジャクソンだ」なんて答えるんだよね。それで、Hの発音の研究したっていうことだから、間違った名前を言われると、むきになって、自分の本名を言うんじゃないかと思ったんだよ」
「頭がいいんですね」理沙は感嘆して言った。
ハリーははにかんだように、
「いや、そんなの何でもないよ」と言い、
「それじゃあ、名前も分かったことだし、警察に連絡したほうがいいな」と携帯を取り出し、ポケットから出したメモ用紙に書かれた番号を入れた。警察なら000番だと信じていた理沙はハリーが入れる番号が違っているのを不思議に思った。警察の防犯課の電話番号まで調べてメモしておいたらしい。
「普通学者って自分の専門分野のことにしか能がないのかと思ったけれど、この人は実務能力もあるんだわ」と改めて、ハリーを見直した。
 理沙は祖父から、日露戦争時代の日本の学者の中に日露戦争があったことすら気づかなかった人がいたことを聞いたことを思い出した。自分の専門以外のことに関しては全く関心がない人のことを学者馬鹿というが、この言葉はハリーに関しては当てはまらないようだった。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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