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EMR(19)

息を切らせながら駅の改札口から駆け込むと、いくつもあるプラットフォームを眺めた。幸いにもラッシュアワーでないので、人もまばらである。右端から左端に視線を動かしていくと、左端のほうに、ムハマドの姿が視界に入った。彼のいるのは理沙のいるところから二つ向こうのプラットフォームになる。慌てて地下道の階段を駆け下り、彼のいる三番プラットフォームの階段を駆け上がると、ムハマドは、幸いにもまだいた。何だか落ち着かない様子で、あたりをきょろきょろと見ている。誰か追っ手が来ないかと警戒しているようである。プラットフォームには、何も視界を遮るものもない。隠れるところのないのを悟った理沙は、堂々とムハマドにアプローチするほうが得策だと判断した。きのう会ったばかりなのに下手に知らぬ顔をすれば、それこそ変に思われるだろう。
「こんにちは。確か『ジーンズ・オンリー』のムハマドさんでしたよね」
 理沙に背後から話しかけられたムハマドは一瞬ぎょっとなったようだが、振り向いて、声の主が昨日の客だと分かると、何とか驚きを押し隠すように、平静を装って言った。
「確か、あなたはきのう僕の店に来た人でしたよね」
「ええ。今日はお店はお休みですか?」
「いえ、開いていますよ」
「そうですか。どこかにおでかけですか?」
「ええ、まあ」とムハマドは言葉を濁した。
 理沙はムハマドが正直に行き先を教えてくれるとは思えなかったので、それ以上は追求しないことにした。ムハマドは明らかに理沙が話しかけてくることを迷惑がっている様子が見えたので、それ以上どんな話をしていいのか分からず、二人の間にぎこちない沈黙が流れた。だから、電車が来た時は理沙は内心ほっとした。ムハマドが電車に乗り込むのに続いて理沙も同じ車両に乗ったが、ムハマドから離れて立った。ムハマドがどこで下りるのか分からないので不安だったが、メルボルンの電車の切符が区間制になっていて、特定の駅で降りなくてもいいので助かる。ともかくムハマドがどこに行くか突き止めようと、理沙は思い始めた。
 しばらく電車に乗っていると、ムハマドの携帯が鳴り、ムハマドは電話相手とアラビア語で話し始めた。何を言っているのか分からない。EMRを取り出して、会話を聞きたいとは思ったが、ムハマドに近づくのをためらっているうちに、ムハマドは携帯を切った。ムハマドは、それから黙って電車の窓に目をやった。地下にもぐった電車の暗い窓にムハマドの不機嫌そうな顔が映った。あの電話はきっと何かよくない知らせだったのだろう。
 電車は終点のフリンダース駅に着いて、理沙もムハマドも電車を下りた。理沙はムハマドの背中を見ながら後を追った。すると、ムハマドは他のプラットフォームに下りていき、そこからまた他の電車に乗るようだった。今更尾行をやめるのは、惜しい。そのまま同じプラットフォームに行き、ムハマドから離れて立った。
 ムハマドは理沙のことを気にする風もなく、次に来たリリーデール行きの電車に乗った。ムハマドは八両ある電車の前から三両目に乗ったが、理沙は一番後ろの車両に乗った。この電車は車両から車両に移れない仕組みになっているので、電車が停まる度に、理沙はプラットフォームを覗かなければいけなかった。その代わり、ムハマドのほうには、理沙のすることが見えない。電車に乗って一時間ぐらい経った頃、電車の中にある掲示板が、次は終点リリーデールとでたところで、ムハマドがリリーデールで下りることが分かった。そこで、理沙は夕べマーク警部から渡された名刺を取り出し、マークに携帯をかけた。携帯はすぐにつながり、「マーク・クロフォード」とマークが出たところで、理沙は、手短に今までのいきさつを言った。それを聞くと、マークは
「実は、こちらの刑事が二人、今朝ムハマドに事情聴取をしようと出かけたのですが、店主の話では何者かからその少し前に電話がかかってきて、母親が急病で倒れたので休みをくれと言って、慌てて店を出たというんですよ。これは逃げられたと思ったので、急いでムハマドの住んでいるマンションにその刑事を行かせて今張り込ませているところですが、なかなか姿を現さないようなので、勘付いて逃げられたのかと思っていたんですよ」
「で、ムハマドはリリーデールに住んでいるんですか?」
「いえ、彼が住んでいるのは、グレンフェリーですよ。でも、リリーデールに彼と関係する人物が住んでいるかどうか調べてみます。無理して尾行しないでくださいよ。相手は自爆テロを起こそうとしている人間ですからね。何をされるか分かりませんよ」
 後になって、理沙はマークの忠告を聞けばよかったのにと、大いに後悔することになるのだが、自爆テロを防止できるかも知れないという興奮で、その時は、マークの忠告も耳に入らなかった。


著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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