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EMR (20)


 リリーデールの駅に着くと、理沙は最後に電車を降りた。電車を下りてプラットフォームを見ると、ムハマドの姿が見えないので慌てて改札口に向かった。リッチモンド駅からリリーデール駅までだと三区間用の切符を買わなくてはいけないのだが、理沙は一区間用の切符しかもっていなかったのを思い出した。こんなところで駅員に止められてモタモタしているとムハマドの後をつけられなくなると心配したが、幸いにも駅には誰も切符を調べる者がいなかった。周りに人影がないのを確認して、改札口のバリアを体操選手が鞍馬に乗るような格好で、乗り越えた。いつか切符を持たないオーストラリア人の若者が、そうしているのを見たことがあるのでまねをしたのだが、少し気が咎めた。理沙が急いで改札口を出ると、ムハマドがリリーデール駅の繁華街とは反対の方向に向かっていくのが見えた。メルボルンの郊外は閑散としているところが多いが、ムハマドの行く道は、昼間なのに人通りもなかった。ムハマドはわき目も振らずに、舗装された道から道路脇の林に続く小さな脇道に入って行く。その脇道は舗装されてはいなかったが道脇に大きな木が並んで立っているので、尾行には絶好の場所だった。理沙は木に隠れながら、ムハマドの後をつけた。しかしムハマドの尾行に夢中になっていた理沙は、急な坂道をムハマドについて速いペースで歩いていると息苦しくなって初めて警戒心に襲われたが、時すでに遅かった。
 ムハマドが急に立ち止まり、くるりと振り返って、木の影に隠れた理沙のほうを見て、「どうして、俺をつけるんだ」と凄みをきかせた声で言った。理沙は恐怖で体がすくんで、黙ってでくの棒のように突っ立ったままだった。すると、ムハマドはすたすたと降りてきて、理沙の腕をとるやいなや、理沙を引っ張って、ぐんぐん山の奥に入った。理沙は抵抗しようにも、すごい力で引っ張られるので引きずられるようにして坂を登ることになった。すると、林の中に小さな平地があり、小屋のようなものがみえて来た。「殺される、誰か助けて!」と叫んだが、時折遠くで通る車の音が聞こえるだけで、周りには人の気配はなかった。小屋から、ムハマドより少し年下らしい若いアラブ系の男が一人出てきた。そして、その男はムハマドに何やらアラビア語で言うと、ムハマドに手を貸して、二人して理沙の両腕を抱えるようにして小屋の中に引っ張りいれた。レンガでできた小屋の中は薄暗く、床はコンクリートだった。小屋の電灯をムハマドがつけると、裸電球に、小さな車のような芝刈り機や熊手など、庭仕事に使う用具が照り出された。どうやら公園の管理をするための道具が入っている小屋のようである。二人は理沙を床の上に放り出すと、年下の男はどこからか縄紐を持ってきて、理沙を身動きさせないように両手を後ろで縛り、足首も縛った。その間にムハマドは理沙のハンドバッグを開けてひっくり返し、ハンドバッグの中味を全部床に落とした。マンションの鍵が床に落ちてチャリーンと音を立てた。鍵のほかに、携帯、財布、ハンカチにちり紙、そしてEMRが落ちたが、ムハマドはEMRには全くの関心を示さず、財布を拾い出し、財布の中身を調べ始めた。
 年下の男は、しゃがみこんで理沙の顔の前に自分の顔を近づけ、
「お前は、誰なんだ?」と聞いた。
 理沙は震える声で答えた。
「林理沙です」
「警察か?」
「とんでもない。私、ただの会社員です」
「どこに勤めている?」
「日本商事と言う会社です」
「どうして、ムハマドの後をつけてきた?」
「ムハマドさんが、深刻な顔をしていたので、自殺でもするんじゃないかと心配になって」と、理沙が口からでまかせを言うと、その男は急に大声で笑い出した。
「お前さんはいつもそんなに人のことを心配して、後をつけるのか?」
 そんなことははなっから信じないという様子で、理沙を小馬鹿にしたように言った。
 ムハマドは理沙の財布の中から運転免許証を見つけ、「確かに林理沙って言う名前なんだな」と免許証の写真と理沙の顔を見比べながら言った。
「どうして俺の後をつけたのか、教えてもらいたいな。俺は女に対して手荒な真似はしたくないんだが」と、正直に答えなければ痛い目にあうぞということをにおわせながら、理沙の顔をにらみつけた。
 理沙の顔はまっさおになり、唇がぶるぶる震え出した。
「そういえば、お前はきのう、むさくるしい感じの男と店に来たが、あれは探りを入れるためだったのか?あの男は警官か?」
「いえ。あの人は東オーストラリア大学の研究員です」
「研究員?そんな奴がどうして俺のことを探りに来たんだ?」
「そんな、探るなんて・・・」
 いきなり平手打ちが飛んできて理沙の右頬を打った。痛みが頭のてっぺんにまで響いて、理沙は思わずのけぞった。口の中が切れたのか、鉛のような血の味が口全体に広がっていった。(続く)

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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