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ハンギング・ロックのなぞ:後藤の失踪(1)

11月25日
 狩野さんが笑いながら、僕に学生の珍答を披露してくれた。
「ねえ、『あたかも』を使って短文を作りなさいっていう質問に、こんな答えがあったわ。『冷蔵庫に牛乳があたかもしれない』」
「苦し紛れで作ったんだろうけれど、その学生は促音か促音でないかの区別ができていないんだなあ」
僕もクックックと笑いながら、学生の間違いの解釈をした後、
「そういえば僕のほうにもそれと負けないくらいの珍答があったなあ」と言って、採点を済ませた答案用紙の山をひっくり返して、
「ああ、あった」と一つの答案用紙を抜き出した。
「『どんより』を使って短文を書きなさいっていうのに、『僕はうどんよりそばが好きだ』だってさ」と、読みながら笑った。
狩野さんはおなかを抱えて笑った。笑いが止まるまで3分はかかっただろう。
「でもそれ、確かに『どんより』を使っているわね。それは、丸にしないと可哀想よ」
狩野さんは笑いすぎて目にたまった涙を、手の甲でぬぐいながら言った。
狩野さんは30代半ばで、2年前からこの大学で教えている。最初メルボルンの小学校の日本語教師のアシスタントとしてきたのだが、オーストラリアの生活が性に合ったようで、アシスタントの契約が切れた後、この大学の修士課程に入り、今はそれも終わって博士論文を書きながらこの大学のフルタイムの講師として雇われ、日本語を教えている。僕達はきのうすんだ後期の期末試験の採点をしながら、オーストラリア人の学生の珍答を面白がった。そうでもしなければ、百枚もある答案用紙を機械的に採点していくのは、退屈極まりない。
 僕達が時折笑いながら採点している部屋に、日本語プログラムの責任者の香川直子さんがドアを半分開けて顔を覗けた。
「今から会議があるはずだけど、二人とも来ないの?」
僕は腕時計を見て、
「あ、いけね。もうこんな時間か」と慌てて会議に行くためにペンとメモを持ってすぐに立ち上がったが、狩野さんはうんざりしたような顔をして、「また、会議ですか?どうせ、どうすればお金が儲かるかって、そんなことの話し合いでしょ?最近あんまり楽しいお話ないんですもの」と口をとんがらせて言うと、のろのろ仕方なさそうに立ち上がった。
 メンジーズ大学の日本語教師は狩野さんと香川さん、そして僕の三人だけで、学生200名を教えている。50代の香川さんは日本で日本語教育で有名な大学を卒業してすぐにオーストラリアに来た、日本語教育歴30年のベテラン教師である。
 会議室に行くと、学科長のヘンダーソン教授が、今日も気難しそうな顔をして上座に座っている。ヘンダーソン教授は痩せた背の高い人で頭ははげかかっているが、昔は女学生の胸をときめかせたこともあっただろうなと思わせるきりっとしたいかにもインテリのような顔立ちの60歳のフランス語専門の教授である。そんなヘンダーソン教授は、学部長の決めたことを学科内の者に通達するのが彼の仕事だと思っているようで、自分達の意見も学部長に伝えて欲しいという不満を持っている僕達からは、学部長の忠犬と陰口をたたかれているが、本人は気づいていないようだ。テーブルの周りに座っているのは10人ばかり。その後の学科長の見えないところに10名ばかり座っている。僕達も、学科長には見えないところを選んで腰掛けた。僕達が腰を下ろしたところで、学科長がおもむろに口を開いた。
「では、会議を始めます。今日欠席の報告を受けているのは、ドイツ語のフリードマン博士と中国語のチェン教授からだけですが、他に欠席がいますか?」と言って、テーブルを見回した。そういわれて僕が周りを見回すと、いつも会議をさぼるインドネシア語科のデルコの姿が見当たらなかったが、学科長はそれを無視して言った。
「じゃあ、欠席はそれだけですね。皆さんの手元に先月の議事録があると思いますが、この議事録に何か間違いがありませんか?」
皆黙っている。前回の議事録なんか誰も読んでいないのだ。
「それじゃあ、この議事録に間違いがないことに同意する人」というと、いつものようにスペイン語科のカーラが手を挙げ、
「それを支持する人?」と言うと、フランス語科のモニークが手を挙げた。いつもの儀式である。
「さて、今日の一番の議題は、学科の予算の赤字をどう埋めていけばいいかですが、それぞれのプログラムで話し合ったと思いますから、その話し合いの結果を発表してもらいます」
 中国語から始まって、フランス語ドイツ語イタリア語、インドネシア語、日本語とabc順で、それぞれのプログラムの責任者が頭を振り絞って考えた金儲けの方法を披露する。中国語は中国との貿易に目をつけているビジネスマンを対象にビジネス中国語を教え始めるといっているし、フランス語は大学入試の対策法を週末2日の集中コースで高校生を対象に教えると言う。日本語プログラムの番になって、香川さんは
「夏休みに学生を日本に連れて行って、日本の大学で一ヶ月集中して教えるコースをしようかと思っています。日本でこちらの希望にそって教えると言ってくれる大学もありますから」と答えた。
そうすると、フランス語科のニーナが
「うちも以前学生を連れてフランスに行っていたことあるけど、保険をかけるためには医者を同行させなければいけないとか色んな条件を課せられて莫大なお金がかかるから、割が合わないからやめたわ」と口を挟んだ。ニーナは日本語プログラムを余りよく思っていないようで、日本語プログラムの者が何か言うといつもけちをつける。僕の憶測だが、長い間オーストラリアで一番人気のあったフランス語が20年前に日本語にとって変わられたのだが、ニーナはいまだにそれが悔しくて仕方ないのだろう。最近は日本語よりも中国語の学習者数が伸びてきているから、モニークの攻撃の矢は中国語のほう向けられてきた。

(聡子はここまで読んで、そういえば、後藤は昔ニーナが新聞に日本語のような何年間も勉強してもものにならないような語学を学習するために政府が予算を増やしたのは、税金の無駄遣いであるという趣旨の意見を投書した事で、随分怒っていたことがあったと、思い出した。)

「保険金って馬鹿にならないのよ」とニーナは付け加えた。ニーナに加勢するかのようにドイツ語プログラムのフレデリックが
「以前友人が言っていたけど、野外学習に学生を連れて行ってさ、学生が一人、皆から離れて勝手に金網が張ってある塀を乗り越えようとして、落ちてけがをしたことがあったんだって。そしたら、その学生、医療代を払えといって、引率の教官を訴えたって話だよ。近頃は学生から何で訴えられるか分かったもんじゃない。やめたほうがいいよ」と言う。結局日本語プログラムのアイデアは皆の反対にあい、取り下げることになった。
会議は
「来週の火曜日にフランス語のモニークが、教授法のセミナーをするということだから、皆さん出席してください」と、モニークのセミナーのお知らせで終わった。

著作権所有者:久保田満里子
 

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2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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