ハンギングロックの謎:後藤の失踪(24)
更新日: 2013-08-11
狩野は後藤に聞きたくてたまらなかったことを口にした。
「ね、ハンギング・ロックで、何が起こったの?」
「何も起こらなかったよ」
「じゃあ、なぜ、あなたの車がハンギング・ロックの駐車場に乗り捨てられていたの?」
後藤は下を見て、足で砂を蹴りながら、答えた。
「それはね、行方をくらますために乗り捨てたんだ。折りたたみ式の自転車を車のトランクに積み込んでいってさ、夜人影がなくなった頃を見計らって、自転車に乗って、ハンギング・ロックの近くの駅まで行って、キングスレークまで来たんだ」
やっと、後藤は真相を話してくれる気になったらしい。
「どうして、そんなことをする必要があったの?」
「ねえ、狩野さん。時々日常生活から逃れたくなる衝動に駆られることってない?毎朝起きて朝ごはんを食べ、大学に行って、仕事をして、家に帰って寝る。そして、また朝が来て、きのうと同じ事の繰り返し。あの日の朝、日本にいる僕の親友だった男の奥さんから電話があってさ。僕の親友の中島が交通事故で亡くなった事を知らせられたんだ。中島の奴3人も子供がいてさ。健康には気をつけて、ジョギングをしたり、健康食を食べたりして、皆から長生きするといつもからかわれていたよ。そいつがあっけなく死んでしまったのを聞くと、人間いつ死ぬか分からないから自分のしたいことがあれば、すぐにやってしまわなくては、と思い始めたんだよ。そうすると、一体自分は何をやりたいのだろうと考えたら、思い浮かんだのが隠遁生活なんだ」
「でも、それだったら、皆に隠遁生活を宣言して、隠遁生活に入ればいいじゃない。何も突然姿をくらまして皆を心配させることないじゃない?」
怒ったように言う狩野の言葉に、後藤は苦笑いをして
「弘や祐一が納得してくれると思う?弘と祐一には父親に捨てられたという思いを持ってほしくなかったんだ」
「もう、捨てられたと思っているわよ。聡子さんは再婚しちゃうし、二人とも肩身の狭い思いをしているんじゃない?」
「そうか。聡子は再婚しちゃったのか」
「そりゃそうよ。あんなに美人なんだもの。すぐに再婚しなかったのがおかしいくらいだと私は思ったわ。ところで、隠遁生活をするにしても経済面はどうしていたの?皆あなたが殺されたと思ったのは、あなたが全然クレジットカードを使っていなかったからなんだけど」
後藤はここでにやりとした。
「実はさ、僕は隠れた才能があるんだよ」
「え?お金を作る才能があるっていうこと?そんなの信じられないわ」
「お金を作る才能はないけどね。実は僕の文才を認めてくれた人がいてね。日本で有名な学者なんだけど、名前は言えない。その人からその人の出版する本のゴーストライターを頼まれてね。その本の印税がかなり入ってきて、その分け前をもらっているんだ」
狩野はそんな話は初耳だった。
「後藤さんが文才があることは知っていたけれど、そんな仕事があるなんて知らなかったわ」
「うん。その人もゴーストライターを使っているなんていうのは人に知られたくないことだし、僕は僕で、自分の居所を誰にも知らせたくなかったので、お互いの利害が一致したってわけさ」
「そうだったの?で、今までキングレークに雲隠れしていたってわけ?」
「そうなんだ。その有名な学者さ、キングレークに別荘を持っていて、僕は管理人も兼ねて住んでいたってわけだよ」
「それで今度の火災にあったってわけね」
「そうなんだ」
「実は私もモニークに誘われて、あの森林火災が発生した日に、キングレークにきていたのよ。もう少しで私も犠牲者の一人になるところだったわ」
狩野は立ち上がると、後藤を立ち上がらせようと手を引っ張っりながら言った。
「ね、もう隠遁生活はやめてメルボルンに戻りましょ。弘君や祐一君はあなたの姿をみたらどんなに喜ぶか」
のろのろ立ち上がりながら後藤はそれでもすぐには「うん」とは言わなかった。
「今更のこのこ出て行って、隠遁生活をしていましたっていうのは、気がすすまないな」
「じゃあ、一生息子さんたちには会わないつもりだったの?」
「それは、」と言いかけたところに
「ハーイ」と言って、30代くらいの茶色い髪の女がニコニコしながら後藤達に近づいて来るのが見えた。
「ケン、この方、知り合い?」と後藤の側に立って、狩野を見た。
「うん。こちら狩野さん。狩野さん、こちらミッシェル」
戸惑いながらも後藤は、そのミッシェルなる人物を紹介してくれた。
ミッシェルは人懐こい性格のようで、
「はじめまして。ケンの知り合いに会うなんて、初めてだわ」と言った。
狩野はミッシェルが後藤の事をケンと呼ぶのが気になったが、ひとまず彼女が何者なのかをつきとめたいという好奇心に襲われた。
著作権所有者:久保田満里子