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六度の隔たり(2)

 ケーキが焼きあがったら、もう6時になっていた。
「帰ったよ」とギャリーの声がした。ギャリーはうちに入る時は靴を脱ぐ。夏美が土足で家の中を歩くのを嫌うので、家に入る時は靴を脱ぐ習慣ができたのだ。台所に入ってきたギャリーが
「いいにおいだな」と言うと、顔中にこねた小麦粉をつけたままのトムが
「ママと一緒にケーキを作ったんだよ」と自慢げにオーブンから取り出したばかりのケーキを見せた。
「へえ、おいしそうなケーキができたな」とギャリーが言うと、トムは嬉しそうに
「勿論、おいしいよ」と答えた。
ギャリーが寝室で着替えをすませてくると、台所のテーブルに座り、三人の夕食が始まった。
その晩の夕食は、いつものようにステーキを焼いて、蒸した野菜をつけたものだった。夏美は、オーストラリアに来た当初は、オーストラリアの肉と野菜のメインコースとデザートという単調な食事を物足りなく感じたが、料理をする側からすると、作るのも簡単だし、皿洗いも大きなお皿とデザートを入れた小皿、そしてナイフとフォークにスプーンと簡単に済む。だから、いつの間にか特別なことがない限り、日本料理を作ることはなくなっていた。
「今日は、学校でどんなことがあった?」とギャリーは機嫌よくトムに聞いた。
「今日さあ、スーダンから来た男の子が僕のクラスに入ってきたよ」
「スーダン?あのアフリカの?」と、私が驚きの声をあげると、
「今はスーダンから来る避難民が多くなったからなあ」とギャリーが答えた。
「それでさあ、その子に『あ、ニグロだ!』と指差していった子がいてさあ、先生に叱られていたよ。そんなこといっちゃあ、いけませんって」
「ふうん。50年前はヨーロッパからの移民が圧倒的だったのに、30年前はベトナムからの避難民が押し寄せ、今はアフリカからの避難民が多くなったってわけね」
昔オーストラリアは白豪主義の国で、アジア人やアフリカ人を完全にシャットアウトしていたと聞いていたので、時代の移り変わりを感じて、夏美は感慨深く言った。
夕食の後、夏美がトムにシャワーを浴びさせ、ベッドに寝かしつけた時は8時になっていた。寝かしつける時は、必ずお話の本を読んでやることにしている夏美は、今日は「スナグルポットとカドルパイ(心地よいポットと抱きしめパイ)」の絵本をとりあげた。それは、緑のどんぐりのような帽子をかぶった可愛らしいキューピットのような裸の赤ん坊の挿絵がついている、オーストラリアの有名な童話だ。その本を読み始めて10分もすると、トムの寝息が聞こえ始め、夏美はトムにお休みのキスを額にして、トムの寝室のドアを閉めた。
夏美が居間に行くとギャリーはテレビを見ていた。
「今日ね、ジーナの具合が悪くなって入院したのよ」
テレビから目をはずさずにギャリーは
「何の病気なんだ?」と気のない声で聞いた。
「軽い脳溢血だったみたい。今晩は大事を取って入院したほうがいいだろうということになったの。手がしびれるなんていっていたけれど、お医者さんは後遺症の心配はないだろうと言っていたわ」
「ジーナも段々年をとってくると、病気が多くなるだろうなあ。うちのお袋もしょっちゅう医者に通っているからなあ」
「それでね、今日頼まれたことがあって、どうすればいいか思案しているところなのよ」
そこで、ギャリーは急に興味をそそがれたようで、初めて夏美の方を見た。
「何を頼まれたんだ?」
「ラブレターを昔の恋人に届けてほしいっていうの」
「へえ、ジーナに昔恋人がいたのか」
「私もちょっと驚いたわ。あんなに夫や子供に尽くしていた家庭的な人に、そんな秘めた情熱があったなんて思いもしなかったわ」
「で、どうしてそんなことに困るんだ。届けてやればいいじゃないか」
「それが、その人が今どこにいるか分からないって言うのよ」
「そうか。それはちょと面倒だなあ。でも、インターネットで調べればいいじゃないか」
「その人が有名な人ならね」
「有名でなくったって、結構載っているよ。うちの兄貴も自分の名前を検索したら、出て来たって言っていたよ」
「お宅のお兄さんは大学教授だから、当然でしょ」
「オーストラリアのインターネットサイトに載っているだけなら僕も驚かなかったけれど、日本のインターネットのサイトにも載っていたんだって」
「へえ、どうして?」
「以前日本の大学に招待されて講演をしたことがあったんだけど、検索するとその時撮られた写真まで出て来たって驚いていたよ」
「そうなの。じゃあ、ちょっと検索してみるわ」
夏美は早速コンピュータの前に座って、ベン・マッケンジーを検索してみた。
すると、同姓同名の人が結構いるようで、外科医、物理学者、作家といろいろ出てきた。一人ひとりのサイトに行って詳しく見て行ったが、ヨーク出身のベン・マッケンジーはいなかった。
「ギャリー。今調べたけれど、インターネットには出てこないようよ」
「そうか。じゃあ、テレビ番組で『あなたの会いたい人を探します』なんていうようなのがあるだろ?テレビ局に連絡して、探してもらったら?」
「私、その番組、一度見たことあるけれど、その人との再会をテレビで放映するっていうのは、ジーナ嫌がると思うわ。私だってジーナの立場だったら、自分の心に秘めていた恋を皆の好奇心の目にさらされるっていうのは、耐えられないわ」
「そういうもんかな」と、ギャリーは気のない返事をした。
夏美は、それ以上どうしていいか見当もつかず、途方にくれた。

著作権所有者:久保田満里子
 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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