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百済の王子(30)

孝徳天皇が即位されて9年目の654年のある日、豊璋の屋敷に、朝廷から使者が来た。
その使者は、「天皇が崩御されました」と、悲痛な顔で天皇の死を告げた。
孝徳天皇は、即位されたときにすでに49歳であったから、58歳になっていた。その当時としては長寿になる。だから、悲報を聞いても、豊璋はそれほど驚かなかった。


セーラは豊璋から
「天皇が崩御されたそうだ。今から宮中に参ってくる」と聞き、思わずきいた。
「皇極天皇が退位された後は、誰が天皇になるかでもめましたが、この度もまた一騒動あるのでしょうか」
それを聞くと豊璋は、
「今の皇太子の中大兄皇子は、孝徳天皇よりも実権を持っているとうわさされているお方だ。中大兄皇子が天皇に即位されることに反対する者はおるまい」と、確信に満ちた声で答えた。


ところが、宮中から帰ってきた豊璋は、
「今度、また皇極天皇が即位されるそうだ」と、セーラに告げた。
「退位した天皇が、また即位されるのですか?どうして中大兄皇子は、即位されないのでしょう?」と、疑問も投げかけた。
「さあ、多分中大兄皇子は、皇太子として自由な身を、当分続けたいと思われたのではないだろうか。もしかしたら、中臣鎌足の入れ知恵かもしれない」
「中臣鎌足って、誰です?」
セーラの質問を聞くと、豊璋はにっこり笑って、言った。いつもはセーラに聞くことが多いので、自分がセーラに何かを教えられるというのは、嬉しいらしい。


「そなたは、あまり倭国のことを知らないようだな。乙巳の変のことを憶えているか?」
「ええ。蘇我入鹿が殺害された事件ですね」
「そうだ。あの事件は中大兄皇子が中臣鎌足と密かにたくらんだことは公然の秘密だ。中大兄皇子が唯一耳を貸すのは、中臣鎌足の助言だと、もっぱらのうわさだ」
「そうですか。確かに、ほかならぬ自分の実のお母様が天皇になられれば、自分を裏切ることはないと、安心しておられますものね。でも、天皇って、いつでも退位して、また即位することが、できるものなのですか?」
「いや、初めてのことらしい。今度は斉明天皇と呼ばれるそうだが、中大兄皇子に説得されて、いやいや即位されることになったらしい」
「まあ、そうですか。以前豊璋様は、誰でも権力を持ちたがるものだといわれましたが、そうでもない方もいらっしゃったのですね」
「それは、斉明天皇が女人だからだ」
豊璋のこの言葉にセーラはカチンと来た。


「女だからこうだと、決め付けないでください」
「そなたもいつも権力をもちたがる者の気が知れないと言っていたではないか。それは、そなたが女人だからだ。違うか?」
「女だって、権力の好きな人はいますよ。たとえば…」と、セーラが、オーストラリアやイギリスの女性の首相の話を例として挙げようとすると、豊璋は、議論を続けるのがめんどくさくなったようで、
「分かった、分かった」と、セーラの話の腰を折ってしまった。


セーラはぷりぷりしながら、自分の部屋に戻った。
「男って、いつも自分の議論が負けそうになると、話の腰を折るんだから」とつぶやいた後、急に笑い出した。
「男だからこうだなんて、既成概念で物事を考えるのは、私も豊璋様と同類ね」と、ひとしきり笑うと、豊璋を許す気になった。

著作権所有者 久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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