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百済の王子(39)

豊璋が福信を殺したというニュースはたちまちのうちに新羅に伝わった。新羅は、今こそ、百済の復興軍を滅亡させるチャンスとばかり州柔に進軍しようとした。 豊璋は、福信を切った瞬間から、このことを予期していた。だから、味方の軍を集めて、新羅の攻撃を恐れないようにと、兵を励ました。

「倭国の救援隊の将軍、廬原君臣が兵を何万人も率いて海を越えて来ている。その軍はまもなく到着することだろう。だから安心するが良い。私は自らこの救援軍を迎えに白村に行くつもりである」

そう言うと、百済軍の兵士から、「百済万歳!」と歓声がわきあがった。

豊璋が白村に下りたのは、8月13日のことだった。その4日後、新羅軍が、豊璋のいなくなった王城を包囲した。

唐軍も水軍と食糧船、合計170隻を率いて、白村に向かった。唐軍の将の中に、 豊璋の異母兄で、 豊璋の代わりに太子として立てられていた扶余隆も加わっていた。 豊璋の異母兄が、百済が滅亡した後、唐の高宗の臣下となって、 豊璋と敵対することになったのは、運命の皮肉と言うよりほかはない。

白村で倭軍を迎えた豊璋は、これで唐、新羅連合軍に勝てる望みができたと、内心ほっとした。船の数だけでも倭軍は優勢だった。唐の軍は170艘なのに対して、倭軍は350艘もある。

すぐに豊璋は、倭軍と百済の将軍を集めて作戦会議を開いた。

「われらが先に攻めれば、敵は恐れをなしてにげていくだろう。敵軍に突っ込んで行くことにした。何しろ、船の数だけでも、我軍のほうが優勢だ」と豊璋が言うと、倭軍の武将、朴市田来津も豊璋の意見に賛同して、先手を打つことに決定した。

最初に倭国と唐の船の合戦がおこったのは、8月27日のことだった。

倭軍は守りを固めていた唐軍の陣に、船を進めて行った。何百と言う船が進むさまは、壮大であった。それに対して唐軍は、倭軍が自分達の陣に深く入ってきたのを見計らって、左右から火をつけた矢を射り始めた。船を挟み撃ちしたのである。左右から飛んでくる火の矢のために、炎上する船も出始め、慌てふためいた百済、倭連合軍は、「退却しろ!」との豊璋の命令で、船先を変えようとした。ところが、船を乗り入れたときには満潮だった白村江は、潮が引いたあと、川底が泥沼に化していて、へさきを変えようにも変えることができなくなった。そのため、倭軍は逃げ場をうしなってしまった。逃げ惑う者、川に飛び込み溺死する者、敵の剣の前に倒れるもの、矢に射られて倒れる者と続出した。船が燃えて煙が空高くみなぎり、海水は敗れた者の血で真っ赤にそまり、、地獄絵を見るような有様となった。豊璋の側に、白村江の潮の満ち干きに関する知識を持っている者がいなかったための、大きな誤算であった。

絶望的な状態になった中、突撃に賛同した倭軍の将、朴市田来津は、天を仰いで、「負けてなるものか!」と誓い、歯を食いしばって、来る敵、来る敵を切り倒して勇敢に戦っていった。しかし、数十人を倒したところで、力尽きて、倒れてしまった。朴市の倒れるのを見た豊璋は、もう勝ち目のないことを知り、「逃げよう」と、腹心の部下を三人連れて、まだ被害を受けていない船に飛び乗って、高句麗に逃げて行った。

3年も続いた百済復興軍の抵抗が、ついに終わりを遂げたのである。

著作権所有者 久保田満里子

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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