飛鳥の麗人(最終回)
更新日: 2016-03-13
失意のうちに毎日を過ごしていた額田王のところに、十市皇女が自害したと言う知らせが届いたのは、壬申の乱が終わって1ヶ月後のことだった。どういう経緯で毒草を手に入れたのか定かでないが、十市皇女は毒薬をあおって血を吐いて倒れているのを侍女が見つけたのだ。
夫の死のあと、床に就くことも多く、額田王に、
「生きていくのが虚しくなりました」とよくこぼしていたが、明らかに世をはかなんでの自殺であった。
皇女の死を聞いて駆けつけた額田王は、まだ体のぬくもりの残っている皇女の体を抱きしめて号泣した。
泣くだけ泣いて気が治まったところで、十市皇女が額田王に書き残した手紙を、十市皇女の侍女から手渡された。
涙でかすんだ目で読んだ手紙には、葛野王は乳母に託したこと、そして葛野王をよろしく頼むと書かれていた。
十市皇女の葬儀で、額田王は天武天皇となった大海人皇子にあった。天武天皇に会うのは、4年ぶりのことだった。額田王は葬儀のあと、天武天皇を散歩に誘った。天武天皇はお供の者に10歩離れてくるようにと言って、ススキの生え茂る野原の小道を先に歩き出した。額田王はそのあとを黙ってついて歩き始めた。
沈黙を破ったのは、天武天皇だった。額田王のほうを振り向いて言った。
「額田、散歩に誘ったのは、そちなのに、なぜ黙っている。何か言いたいことがあるのであろう」
「大君、私は大君を恨んでおります」
そういうと、天武天皇は額田王の目を避けて言った。その横顔は悲しげであった。
「わかっておる」
「大友皇子がなくなられた後、なぜ一度も十市を見舞ってくださらなかったのです」
「なぜ?」天武天皇は額田王の顔を射るような目で見た。
「それは、十市に合わせる顔がなかったからだ。十市から大友皇子と和解してほしいと文をもらったが、その返事も書けなかった。それは、できぬことだったからだ。正直にそんなことはできぬと言えば、十市はますます傷つくだけだと思ったからだ。十市のことを全く考えなかったわけではない。そなたと同様、朕も十市の親じゃ」
天武天皇の目に光る涙を見たとき、初めて天武天皇の悲しみが、矢で心臓を突き刺すように、額田王に伝わってきた。額田王は娘の死の悲しみを同じように分かち合える人に初めて会った気がした。
「大君、十市皇女が大友皇子に嫁ぐことが決まった日のことを覚えていらっしゃいますか」
「ああ。兄上から婚姻の話があったとき、そなたは大喜びしていたな」
「ええ。天智天皇が一番期待をかけていらした大友皇子でしたから。十市皇女も大友皇子を慕っておりました。だから、これ以上のご縁はないと、天にも昇る気持ちでした。あなたさまがあんな乱など起こさなければ、今頃十市皇女は皇后になっていたことでしょう」
「そうだな。あの時は、まさかこんなことになるとは夢にも思わなかった」
そのあと、二人は並んで琵琶湖の美しい水面が太陽に照らされきらきら揺れ動くのを黙っていつまでも眺めていた。
それが、二人が交わした最後の会話であった。
額田王は十市皇女の死後、屋敷にこもって和歌を書き続けた。和歌だけが、額田王に最後に残された生きがいであった。しかし、宮廷で呼ばれることもなくなった額田王の書いた歌は、和歌集に載せられることはなかった。額田王が屋敷にこもっている間に、すでに時代は柿本人麻呂の世に移っていた。
参考文献
壬申の乱(松本清張)講談社
隠された帝(井沢元彦)祥伝社
文車日記「額田女王の恋」(田辺聖子)新潮社
額田女王 (井上靖)新潮文庫
茜に燃ゆ:小説額田王(黒岩重吾)中央公論新社
インターネット:
額田王:ウイキペディア
歴史の智恵:額田王の男女15人の恋物語
著作権所有者:久保田満里子