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知美の闘病記(1)

「乳がんでした」と言う医者の言葉が電話口から聞こえた時、知美はガーンと頭を金づちで殴られたような気分におちいった。乳房にマスカットの粒大のしこりを見つけたのは半年も前のことである。すぐにエコー検査をし、マモグラムの検査もした結果、「何かにぶつかって、衝撃を受けてできたこぶのような物でしょう」と説明されたが、別に物にぶつかったような記憶はなかった。そのしこりは3か月たっても小さくなるどころか段々大きくなるばかり。不安を感じて、メルボルン一と定評のある外科医を紹介してもらった。その外科医との予約は3か月先になると言われたが、仕方ないので3か月待った。

「3か月も待たなければいけないのよ」と、皮膚がんになった経験のある友達にこぼすと、「僕なんか半年待たされたよ。名医ともなれば、皆見てもらいたがるからね。待たされるんだよ」

 そう言われてみれば、その外科医は最近有名な歌手を治療して評判になっていたので、納得せざるをなかった。3か月たって、やっとその外科医に会うと、すぐに細胞検査をするようにと言われた。その検査の結果を知らされたのだ。だから、癌と判明するのに半年もかかったと言うわけだ。

「そうですか。それでは今からそちらに行きます」という知美には、母親が胃がんの痛みでのたうち回って苦しんだ姿が目に浮かんできた。母親は38歳で死んでいる。知美も、あの母親と同じように激痛の苦しみを味わなければいけないのかと思うと、気が滅入った。

 不安な気持ちで、医者の前に座ると、ふくよかなどこにでもいるようなおばさんと言った感じの外科医は淡々とした優しい声で、知美に検査の報告書を見せながら、検査結果を説明してくれた。

「あなたの癌はまだ4ミリくらいの小さなものだから、転移しているとは思えません。もちろんはっきりしたことは、癌を取り除く手術の時に、リンパ線の一部を切り取って、精密検査をしなければ分かりません。もし転移していないと仮定すると、あなたの治療法は、手術、放射線治療、そしてホルモン治療となります」

「あのう、私、死ぬのはこわくないのですが、痛い治療はごめんこうむりたいのですが」と知美がおそるおそる言うと、医者はにっこり笑って、

「抗がん剤を使ったキモセラピーは、髪の毛も抜けるし吐き気がしたり気分が悪くなるという副作用がありますが、あなたにはキモセラピーは必要ないでしょう。もっとも精密検査の結果が出るまで断言できませんが。放射線治療の副作用は、日焼けをすることと、疲労感に襲われることくらいです。キモセラピーのように気分が悪くなるということはありません。それに治療しているときも、痛くもかゆくもありませんよ。ホルモン治療は、薬を飲むだけですからね。痛くないから大丈夫」と太鼓判を押してくれた。医者のその微笑を見て、知美の不安はけしとんだ。

 手術は早いほうが良いと言うので、手術の日は4日後になった。手術後入院するのは一泊だけと言われ、長い闘病生活を考えて気が滅入っていた知美の心を少し軽くした。独身の知美は、退院した後のことが心配になり、近所に住む独身の友達、朝子に連絡した。普段は気が強いと思われている知美も、この時ばかりは心細くなっていた。

 知美が入院のことを話すと、「まあ、大丈夫なの?」と朝子は驚き、すぐに飛んできてくれ、病院への送り迎えを頼むと、快く引き受けてくれた。

 翌日知美のもとに乳がん患者を支援する会から小包が届いた。開けてみると癌治療の説明書、リハビリのための運動のDVD,手術後用のブラジャー、記録をとるための闘病日誌などが入っていた。乳がんに対する寄付活動は盛んなのは知っていたが、こんなにも支援があるのかと、びっくり。そのあと看護師から電話がかかり、これからの治療について詳しく説明された。医者から、どこにリンパ腺が通っているか知るために、手術の前日に放射線物質をリンパ腺に注入するように言われていたが、その看護師から、「その注射、痛いので覚悟しておいてね」とくぎをさされて、知美はまたまた恐怖に陥った。

「あのう、痛み止めをあらかじめ飲んでおいてもいいでしょうか?」とおそるおそる聞くと「それは、かまいませんよ」と言われ、早速薬局に行って、強力な痛み止めを買って、備えた。その時、入院の手引きに書いてあったように、病院に持っていくために薬局でいつも買う薬のリストをプリントしてもらった。知美は、高血圧とコレステロールの薬を飲んだいた。知美も60歳になったとき、医者からすすめられて、この5年間飲み続けている。

 知美は手術の前日、病院の放射線科の小さな部屋に通されて、仰向けに寝かされた。医者は、「悪いけれど、右手は背中に回して」と言う。「どうしてですか?」と言う知美に、医者は本気とも冗談ともとれるような口調で「だって、痛いからって殴られたら、たまらないもの」と言う。

 知美は、『ええっ、そんなに痛いものなの?』と不安の波が押し寄せ身を固くした。いよいよ注射の針が皮膚を突き刺し、放射性物質が、乳房全体に広がっていくのが感じられたが、思ったより痛くなかった。麻酔薬を打たれるときのちくっとした感覚が長引いたという感じだった。痛め止めが効いていたせいかもしれない。

 家に帰った後、明日は手術だと思うと、知美は鏡に映った自分の乳房を見て、この乳房とお別れだと言う感慨に襲われた。いつだったかオーストラリア人の女医さんから「まあ、小さな乳房ね」と言われたが、それでも、いとおしく感じられた。だから、もう二度と同じ形が見られない乳房を記念として携帯で写真に撮った。少しセンチメンタルな気持ちにおちいっていた。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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