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ピアノ熱(最終回)

おさらい会の次の週、文子は初めてピアノのレッスンを休んだ。メールで風邪を引いたと口実をつけた。スティーブからは、『お大事に』と言うメッセージが届いた。おさらい会が終わって、一度もピアノの前に座る気にはなれなくなっていた。
明子は文子の傷心を聞きつけて、文子に会いに来た。
「あなた、子供の時からピアノしている人に勝てると思っていたの?」と明子はからかうように言った。
「そんなことは思っていなかったけれど、スティーブは私のほうだけをみてくれていると思ったの」
「そんなえこひいきするようでは、教師失格よ」
「そうなんだけれど、あの女、勝ち誇ったような顔をしていたのが気に食わないのよ」
実際には、勝ち誇ったような顔をしていたのかは分からないけれど、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのことわざのように、文子にはそう思えた。
「それで、もうピアノやめるの?」
「わかんない」
文子自身、本当に分からなかった。ぐずぐずしているうちに、1週間が過ぎてしまった。やめようか、続けようかと思い悩みながら、また休むための次の口実を考えた。
「仕事が忙しくなって、当分行けそうもありませんから、1か月、お休みをします」
メールをスティーブ宛に送信した後、1か月の猶予が与えられたと、ほっとした。
おさらい会が終わって、3週間目のことだった。スティーブンから生徒あてに一斉メールが来た。
「悲しいお知らせがあります。先日おさらい会で素晴らしい演奏をしてくれたフェイ・ウエストが、交通事故に遭い、右手を切断することになり、もうピアノが弾けない状態になりました。非常に残念であります。皆さん、同じ教室で学ぶものとして、彼女を是非励ましてあげてください」
文面からスティーブの悲痛な気持ちがひしひしと伝わってきた。しかし、それを読んだとたん文子は急に元気が出てきた。他人の不幸を喜ぶなんてけしからん奴だと自分でも分かっているが、何か頭を押さえつけていたものが急に取り払われた感じだった。現金なもので、その日からまた文子はピアノの練習を再開した。そして、またスティーブに屈託なく会えると思うと、またあのルンルン気分がよみがえってきた。1か月たったら、またスティーブに会いに行こうと、心が弾んだ。
1か月の欠席をしたあとのレッスン再開の日の前の晩、文子は家でピアノの練習をしたかったが、同僚の誕生日だというので、同僚たちに誘われてビストロに行った。ビストロは人ごみでごった返していたが、何とか同僚たち7人のテーブルを確保して座ることができた。皆でワイングラスを片手に「シモーヌの28歳を祝して乾杯!」と声を合わせて乾杯したあと、文子は遠くにスティーブの姿を認めた。
「あら、誰か知っている人がいるの?」と隣に座ったバースデーガールのシモーヌは文子の視線の先にある人物を見極めようとした。
「うん、ちょっとね。挨拶してくるわ」
文子は久しぶりに見るスティーブに早く会いたいと気がせき、席を立ち、スティーブのいる席の近くまで来た。そのとき、スティーブの肩を抱いてキスする者を見て、はっとした。文子にもしなかった口づけだった。そのキスの相手は、ひげもじゃの太った40がらみの陽気そうな男だった。
「もしかしたら…」
文子がそう思っていると、
そのテーブルを囲んでいる男共が、
「スティーブとチャールズの素敵なカップルに乾杯」と叫ぶ声が稲妻のように文子の耳にとどろいた。
その後、文子はスティーブに声をかけるのをやめて、バースデーガールのいるテーブルに戻った。
その晩文子は明子を呼び出して、ぐでんぐでんになるまで酔っ払った。
「もう、ピアノなんか習わない」と叫ぶ文子に、明子は呆れ顔で
「あんた、好きな男に好かれるためにだけピアノをやっていたの?あほらしい。これだから私は女は嫌いなんだよ。好きな男の好みに合わせることしか情熱持たないんだから」
「ああら、そういうあんただって、女じゃない」と文子がろれつの回らない声でからむと、
「そうだよ。だから私は自分も嫌いなの」と明子は、グラスにワインを注ぎながら言ったが、その明子の手元も怪しくなっていた。

著作権所有者:久保田満里子

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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