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一(はじめ)と一子(7)

1983年1月の寒い午後、一子は家族が出払った後、庭掃除をしていた。一子の家は大きな塀に囲まれ、広々とした池と庭がある。一子はすでに60歳を越えていて、孫もいる身だった。そこに、見知らぬ30代くらいの男が、門の前でタクシーを降り、庭に入って来た。一子は、よそ者と思える人間が、何の用事で来たのかわからず、少し警戒心を持って迎えた。
「失礼ですが、宮谷一子さんですか?」と、その男が聞いた。
「そうですけれど」
その後、その男は、「僕はジャーナリストの中野不二夫という者です」と背広のポケットから名刺を差し出した。ジャーナリストが一介の主婦である自分に何の用事かといぶかしげに、その男の顔を見ると、
「突然ですが、豊島一さんのことでおうかがいしたいのですが」と、その男は言った。
豊島一なんて何十年ぶりかに聞く名前に一子は戸惑った。もう一の記憶は時間と共に薄れている。それに、今は夫のある身であるから、昔の恋人のことをほじくり返されるのは、迷惑だと思った。
「もう昔のことですから、覚えていることはありません」と言うと、中野と言う男から視線を外し、帰ってくれと言わんばかりに一子は、下を向いて箒を動かし始めた。
「ご迷惑なこととは思いますが、豊島一さんについて調査をしているんです。一さんは1942年に戦死されたということになっていますが、実はオーストラリアで、1944年まで生きておられたんですよ」
中野の言葉は、一子には衝撃であった。戦死の知らせを受け取った時、心の奥底で、まだ一が生きているような気がした。だから、思わず
「やっぱり生きておられたんですか」と、言った。
一が生きていたと聞くと、一がどうしていたのか、知りたくなり、その誘惑に負けて一子は、
「家に入ってください」と、中野を家に招き入れた。
中野を家の座敷に通して、「お茶でも淹れますから」と立ち上がった一子を中野は、「どうぞ、お構いなく」とお茶を辞退した。
中野は大きな一枚板の磨き上げられたテーブルをはさんで差し向いに座った一子に、
「こちらのことは、キクエさんに聞いてきました」と、話し始めた。
「こちらの写真を見ていただけますか?」と、中野は一枚の写真を取り出した。そこには、まぎれもなく一の顔が写っていた。
「これは、一さんですね」
一子は目を細めて、懐かしそうに写真に見入った。
「実は、彼はオーストラリアの捕虜収容所に、南忠男と言う名前で収容されていましたが、1944年8月5日に暴動を起こし、亡くなりました」
「暴動を起こした?」
「そうです。僕の調査では、彼がオーストラリアで起きたカウラ暴動の中心人物だったようです」
それから聞いた中野の話は、一子を驚かせてしまった。

注:中野不二夫著「カウラの突撃ラッパ」の一部を脚色しました。
著作権所有者:久保田満里子


 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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