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夫の秘密(10)

トイレから戻った希子は、母親に「あんた、もしかして妊娠しているんじゃないの?」と言われて、一瞬ぽかんと口を開けた。
「まさか、も結婚して5年にもなるのに、子供ができなかったのよ。二人とも検査してもらったわけじゃないけれど、子供のいない生活も気ままでいいよねと言って、もう子供ができることなんて考えたことなかったわ」
笑いながら、そう答えた後、友人の咲江の話を思い出した。咲江は子供が欲しくてたまらず、結婚して3年たっても子供ができないので、不妊治療を始めたそうだ。しかし、その不妊治療も成功せず、2年で諦めたそうだ。ところが、不妊治療をやめて半年後に思いがけず妊娠したんだと、2歳になる娘の里香をいとおし気に抱きしめながら言ったものだ。そして、「子供は授かりものよ。希子さんだって、いつ子供ができるか分からないよ」といつも言っていた。咲江の例を考えると、自分が妊娠している可能性は皆無とは言えない。
「そうね。もしもってことがあるから、明日にでも医者に会いに行ってくるわ」と希子は母親に答えた。すると母親は、不安そうな顔をして、
「トムさんに連絡したほうがいいんじゃない」と言う。
「お母さん、まだ妊娠したかどうかも分からないのに、今から連絡してどうするの?妊娠してると分かったところで、連絡すればいいわ」
「あんたたち、何があったの?」とその時初めて母親はきっとした顔をして言った。
「色々あったのよ。でも、今はまだ気持ちの整理ができないから、話せないわ」と希子は母親から視線をそらせた。
「そう。言いたくなければ言わなくてもいいけど、明日病院に行って検査の結果が出たら、すぐに知らせてよ」
「分かったわ」
その晩、希子は眠れなかった。子供ができるなんて予想外のことだ。子供をどうすればいいのか。シングルマザーとして、子供を育てていくべきか。それとも、子供のためにトムと和解すべきか。それとも堕胎すべきか。その晩も来たトムのいつものラブコールを読みながら、考え込んでしまった。
翌朝、病院に行った。産婦人科なんて、初めてだった希子は不安な気持ちで、待合室を見回した。まだおなかの目立たない人もいるが、大きなおなかを抱えている妊婦の姿も見えた。中には夫同伴と思われる若いカップルもいる。不安げな顔もある中で、幸せそうな顔も多くみられた。病院で幸せそうな顔が見られるのは、産婦人科くらいのものではないかと思った。
 手持ち無沙汰になった時のために英語教授の仕方の本を持ってきたが、その本を開く気持ちになれず、ぼんやりと待っていると、30分ほどで、呼ばれ、希子は診療室に入って行った。

ちょさ

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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