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テス・マッケンジーさんの物語(4)

私のビザの許可が下りたのは、1952年の初めでした。1952年は百人以上のチェリー・パーカーさんと同じ境遇にあった人、つまりオーストラリア人と結婚した戦争花嫁が、オーストラリアに来ました。私がレイと一緒に来たのは戦争花嫁を乗せた3回目の船でした。私達の乗った船は1953年5月に神戸港を出て、7月9日にオーストラリアに着きました。港ではレイのお姉さん、ルーピー・マッケンジーと妹のベバリーが、迎えに来てくれました。二人と初めて会ったのに、ずっと昔からの知り合いのように思えました。それは日本にいる時からずっと文通していたからでしょう。
 メルボルンに着いた後は、洋裁師のルーピーが彼女のお客さんを紹介してくれたり、買い物に連れて行ってくれたりして、家族の一員として付き合ってくれ、孤立しないで済んだのは幸いでした。
 最初の住処はリッチモンドの389パントロード。主人は軍隊に籍を残し、特務曹長になりました。私は最初は5年のビザしかもらえなかっのですが、1958年に、メンジーズが5年オーストラリアに滞在した人に対して市民権取得を可能にしたので、1958年市民権を取りました。オーストラリアと日本の2重国籍者になったのです。日本のパスポートには竹藤鉄子と書かれ、オーストラリアのパスポートには、テス・マッケンジーと書かれていました。ところが1965年ごろ、日本が2重国籍を認めなくなったので、仕方なく日本国籍を捨てました。テス・マッケンジーになった訳ですが、今でも日本人の知人の中には鉄子さんと呼ぶ人がいます。
 その頃日本人の数は少なく、日本から知っている日本人としか付き合いがありませんでした。
 今から思えば恥ずかしくなることは、天気の良い日に、主人に手伝ってもらって、マットレスの日干しをしたことです。オーストラリアにはそういう習慣はないことを知りませんでしたが、きっと主人は恥ずかしかったことでしょう。

著作権所有者:久保田満里子

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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