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おばあちゃんの映画の思い出(1)

 先日、ばあちゃんの卒寿のお祝いに行った。ばあちゃんは90歳になったと言っても頭は明晰。物忘れのひどいママは、ばあちゃんの記憶力の良さには、舌を巻いている。でも、ばあちゃんがいつまで生きているか分からない。だから、今のうちにばあちゃんの話を聞いて、まとめておこうと思い立った。
 ばあちゃんは、呉出身。ばあちゃんの実家は老舗の旅館を営んでいたが、ばあちゃんの子供の頃は、呉の近くにある江田島に海軍士官学校があったため、ひいきのお客さんは海軍の軍人さんが多かったそうだ。ばあちゃんは、戦後呉で知り合ったオーストラリア人のじいちゃんと結婚して1953年にオーストラリアに来たんだそうだ。
 ばあちゃんの若いころの話を聞いていると、映画の話がよく出て来る。ばあちゃんは、映画が大好きだったんだそうだ。でも、ばあちゃんが映画を見に行くと、色んな出来事に出くわすことが多かったと話してくれた。以下は、ばあちゃんから聞いた話である。

 1941年の12月の初めのころ、まだ13歳だった私は、家族と一緒に広島まで映画を見に行ったことがあるのよ。その日、広島から帰って来ると、仲居さんが、留守の間にお客さんがあったと言って、小さな菓子箱と手紙をお父さんに渡したの。その手紙には、「長い間、お世話になりました。この度、遠くに行くことになり、お別れに参りました。お会いできなくて残念ですが、皆さま、お元気で。 岩佐直治」と、書かれていたの。岩佐さんと言う人は海軍の軍人さんで旅館の常連だった。
「岩佐大尉、どこか遠くに行かれることになったそうだ。会えなくて残念だったなあ。でも、遠くに行くって、どこに行っちゃったんだろう」と、お父さんは不思議がったけれど、その時は、分からなかった。その後、岩佐さんのことが大々的に新聞に報道され、初めて岩佐さんが何をしたかを知って、皆びっくり仰天した。
「軍神岩佐直治中佐」と書かれた新聞の記事によると、岩佐さんは1941年12月8日、仲間と一緒に考案した甲標的という、前方に魚雷発射管を備えた特殊潜航艇で、部下の佐々木直吉少尉と一緒に真珠湾攻撃をし、戦死したと書かれていた。岩佐さんは、その功績によって、軍神とまで言われるようになり、「軍神岩佐中佐」と言う曲まで作曲されたくらいだった。岩佐さんは目鼻立ちのはっきりした、眉の濃い、ハンサムな人で、剣道がめっぽう強い素敵な人だったけれど、結局26歳の若さで戦死してしまった。あとでお父さんから聞いた話では、岩佐さんは真珠湾攻撃に出かける前、婚約解消をして戦地に向かったと言うのだから、もう死を覚悟していたんだと思うわ。これが第二次世界大戦の始まりだった。

ちょさ

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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