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行方不明(8)

 静子はその晩も夢を見た。トニーが静子を呼ぶ声がしたのだ。今度は月に照らされた森の中をトニーの声のする方に歩いて行くのだが、行けども行けども声から測られる距離は縮まらない。トニーに一歩でも近づくように、木々の間を、そのうち駆け出した。胸の動悸が高まり、息ができなくなるほど鼓動が早まった。その苦しさに一旦止まって、ぜーぜー荒い息を吐きながら、呼吸を整えようとしているうちに、トニーの声は聞こえなくなり、目が覚めた.汗をびっしょりかいていた。胸の動悸はおさまっていなかった。奇怪な夢だった。

 その日、昼から一緒に映画を見に行こうと誘いに来たジョンに奇妙な夢の話をしたら、深刻そうな顔をして、「こんなことを言いたくなかったけれど、1年も経っても音沙汰がないというのは、トニーはもうこの世の人ではないかもしれないね」とぽつんと言った。静子にもそういう予感が横切ったのだが、口に出していってしまうとそれが現実のものになりそうで、こわくて言えなかっただけだった。
「ジョンもそう思っていたのね。私も本当はそう思うのだけど、信じたくないの」とだけ言った。

 その日ジョンと見た映画はロマンチック・コメディーだったが、笑えなかった。いつもなら、映画の後一緒に食事をしながら、あの俳優は素敵だとか、物語が単純でつまらなかったとか、二人で映画の批評に話が弾むのだが、今日は食事の時二人ともほとんど言葉を交わさなかった。食事が終わって、ジョンはいつものように静子をうちまで送ってくれた。そして、帰りがけに言った。
「もうトニーは生きていないかもしれない。もしトニーが生きていないことが分かったら、僕との付き合いを深刻に考えてくれないかな」
「深刻に考えるって、どういう意味?」
「つまり、その」と言葉を切り、その後は思い切ったように「僕との結婚のことを考えてほしいんだ」と静子の目を射るような眼差しで見た。言ってはならないことを言ってしまったという後悔の念と、思いを告げた後のすっきりした気持ちとが入り混じったような目だった。そして、いとおしむように静子の顔を両手で引き寄せ、唇を押し付けた。

 ジョンが踝を返して去った後、静子はそのまましばらく家の前で佇んでいた。ジョンはトニーがいなくなった静子を慰めるために、うちにしばしば来ていたのだと疑わなかった静子は、少なからずジョンのキスにショックを受けた。静子はジョンをいい人だと思ったが、男として見たことは一度もなかった。しかし、好きだと言われて悪い気はしなかった。トニーがいたらジョンに心を傾けるということはなかっただろうが、トニーがいない今、ジョンはいつも助けを求めれば、すぐに来てくれる貴重な存在だった。ジョンの気持ちに答えたいと言う思いが湧いたが、それはトニーに対する裏切り行為だと思うと、静子はそんな思いを持つことに罪悪感を感じた。

 その晩も立て続けにトニーの夢を見た。今度の夢では、トニーの顔がはっきり見えた。悲しみをたたえた顔だった。そして、背中を向けたかと思うと足早に去っていくトニーは、夕べ見たのと同じように、森の中に消えていった。
トニーの行方さえはっきりすれば、ジョンに対してどういう態度をとるかはっきりするのに、このままではいつまでも中途半端な気持ちでいるだろうと思うと、静子は早くトニーの行方を突き止めなければいけないと思うようになっていった。それに、何度も見る森の中のトニーの夢は、何か意味があることなのであろうか。

 夢の中で出てくるトニーのいる森ってどこだろう。もしかしたら、姑に聞いてみれば、何か手掛かりを得られるかもしれないと思うといても立ってもいられなくなり、次の週末、静子は久しぶりに姑のいるリタイアメント・ビレッジに行くことにした。日曜日に行くからと姑にはあらかじめ電話しておいた。日曜日の昼過ぎ、いくつも同じ造りの小さな家が立ち並ぶビレッジの細い道を車でゆっくり入っていくと、姑がうちの玄関の側の花壇の手入れをしているのが見えた。車を止めると、姑も静子に気づき、泥のついた庭仕事用の手袋を外しながら、静子の側に来た。
姑は「久しぶりね」と言うと、静子を抱いて、頬にキスをした。
「はい、ご無沙汰しています」
「うちに入って」
「はい、お邪魔します」
居間のソファーに腰を落ち着けると、テーブルの上に、舅の写真と、トニーと静子の結婚式の写真が飾ってあるのが目に入った。台所でごそごそしていた姑がビスケットを載せた皿と紅茶を持って来た。




次回に続く.....

著作権所有者・久保田満里子


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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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