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ピアノ熱(3)

スティーブを招待した日、約束の時間に現れたスティーブは、青いセーターとジーパンのカジュアルな服装だったが、ハンサムな人は何を着ても似合うと、文子はうっとり見とれた。
その晩ほど楽しいことはなかった。スティーブの演奏会での色々なエピソードを聞き、二人で笑った。スティーブの食欲は驚くほどで、「おいしい」と連発しながら、文子が心をこめて作った寿司やてんぷらをたらふく食べてくれた。
その日をさかいに二人の距離が近くなったと、文子には思えた。しかし、その後何度もスティーブが食事をしに文子の家に来たが、会った時やお別れのとき、体を抱きしめて頬にキスをしてくれるが、それ以上には発展していかなかった。それでも、文子はうきうきした毎日を送っていた。しかしそうした毎日は長くは続かなかった。
それはスティーブが自分の生徒たちを集めておさらい会をしたときのことだ。その日は、生徒たちは皆それぞれ日ごろ練習した曲を弾くことになっていた。おさらい会には40名ばかりの生徒が集まり、皆一人ずつピアノの前に座って順番に弾いていった。文子の番がきた。文子は習い始めて間もないこともあって、「エリーゼのために」を弾くことになっていた。他の生徒のピアノは、文子と大差はないように思え、落ち着いて弾くことができ、自分でも満足できる出来ばえだった。最後にピアノの前に座ったのは、大学生らしい20歳前後の若い美しい女性だった。その生徒のピアノは、まるでスティーブがもう一人いるような錯覚を起こさせるほどの素晴らしいできだった。彼女が弾き終わったあとは、皆総立ちとなり、「ブラボー」と言いながら拍手の嵐が起こった。
後ろで「さすが、スティーブ先生の愛弟子のフェイね」と言うささやき声が聞こえた。
すると、拍手をしながらフェイに近寄ったスティーブは、「素晴らしかったよ」とフェイを抱きしめた。その姿を見たとき、文子の心に嫉妬の炎がメラメラと燃え広がっていった。文子はその場にいたたまれなくなって、まだ拍手をし続けている人々を掻き分けて、家路についた。「私は習い始めてまだ間もないんだから、仕方ないじゃん」と自分に言い聞かせたが、子供の時から習っているようなその女子大生にはとうていかなわないという悔しさが胸を痛くした。そして自分だけがスティーブを独り占めできないという現実に打ちのめされた。そして、ピアノに対する情熱まで消えてしまいそうだった。
その次の週、文子は初めてピアノのレッスンを休んだ。メールで風邪を引いたと口実をつけた。スティーブからは、『お大事に』と言うメッセージが届いた。実際のところ、文子はおさらい会が終わって、一度もピアノの前に座る気にはなれなくなっていた。
明子は文子の傷心を聞きつけて、文子に会いに来た。
「あなた、子供の時からピアノしている人に勝てると思っていたの?」と明子はからかうように言った。
「そんなことは思っていなかったけれど、スティーブは私のほうだけをみてくれていると思ったの」
「そんなえこひいきするようでは、教師失格よ」
「そうなんだけれど、あの女、勝ち誇ったような顔をしていたのが気に食わないのよ」
実際には、勝ち誇ったような顔をしていたのかは分からないけれど、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのことわざのように、文子にはそう思えた。
「それで、もうピアノやめるの?」
「わかんない」
文子自身、本当に分からなかった。

ちょさく

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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