行方不明(10)
更新日: 2010-03-01
月曜日は、仕事が入っていなかった。朝起きてメールを見ると、トレーシーからの返事が来ていた。その日の午後4時までなら空いているというので、午後2時に、シティーにある有名なケーキ屋で、待ち合わせすることにした。
メルボルンの郊外の道はひとっこ一人も見ないことがあるのに、さすがに昼間のシティーは、人でごったがえしていた。いつもの習性から、約束の5分前にはケーキ屋に着いた。昼時に行くと座る椅子を探すのに一苦労するのだが、昼休みの時間が過ぎていたせいか、空席が目立った。トレーシーの写真は見ているので、こちらはトレーシーが分かる。35歳くらいの長いウエーブのかかった栗色の髪のぽちゃぽちゃした感じの女性のはずだ。入り口がよく見える席に座って見ていると、約束の時間を5分過ぎた頃トレーシーは現れた。アジア人で一人座っている女は私しかいなかったせいか、それとも彼女の透視力のせいか、トレーシーは迷うことなく私の方につかつかとよってきて、「静子?」と聞いた。「そうです。今日は会ってくださってありがとう」と手を差し伸べて握手をした。トレーシーはカフェ・ラテとこの店自慢のチーズケーキを注文し、静子はカプチノとブラック・フォーレストと呼ばれるクリームとチェリーのはさまったチョコレートケーキを注文した。
「実は夫が一年前に失踪し、行方が分からないのです。ところが最近彼が森にいて私を呼んでいる夢を頻繁に見るようになったのです。あなたの体験談が載っている雑誌の記事を読んで、もしかしたら何か夫の行方の手掛かりになるようなことを教えてもらえるのではないかと思ったのです。」
トレーシーは身を乗り出すようにして熱心に私の話に聞き入っていた。
「その夢の中の、ご主人は、どんな表情をしているの?」
「悲しそうな顔をしています」
「そう。それじゃあこんなこと言いたくないけれど、もうご主人は亡くなっていると覚悟した方がいいわね」と言った。
「はやり、そう思われますか。多分、そうじゃないかとずっと思っていたのですが」
「で、どんな森だったの?」
「それが特別これと言って変わった所はないので、特定できないのです。」
「そう。これからも同じような夢を見るかもしれないわね。そしたら、起きた時、何でも覚えていることをメモに書き取るのよ。多分ご主人はあなたに何かを伝えたがっているのでしょうから」
夢の話をしたら、馬鹿にされるのではないかと今まで胸に秘めていたことを真面目に聞いてくれる人に出会えて、静子はほっとした。
「私に何かできることがあったら、また連絡して。3時にまた他の人に会う約束をしてしまったので、これで失礼するわ。早くご主人の行方が分かることを祈っているわ」
おいしそうにチーズケーキをあっと言う間に平らげるとトレーシーはバッグからお金を出しかけたが、静子はそれを遮って、「私がお誘いしたのだから、私に払わせて。」と言って、お金を返した。
「それじゃあ、ごちそうになっておくわ。ありがとう」と言って、トレーシーは席を立って出て行った。残された静子はゆっくりケーキを食べ、冷えきったカプチーノをのどに流し込むと、ゆっくり席を立ち、会計を済ませて通りに出た。夢が夫を捜し出す手掛かりになるかもしれないと思うと、少し心に希望の光がともったように思えた。町行く人は、皆急ぎ足だった。押し寄せる人の波に逆らって歩くのは、並大抵のことではなかった。時には人にぶつかってとばされそうになりながらも、メルボルン・セントラルの地下の駅に着いた時は3時半になっていた。
著作権所有者:久保田満里子
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