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EMR(15)

大学院に残っている省吾は、サラリーマンのように時間に束縛されない。省吾に助太刀を頼もう。最近の気まずくなった関係を修復するにも、いいチャンスかもしれないとも理沙は思った。
 省吾の携帯の番号は登録しているので、すぐに電話をかけることができた。省吾の「ハロー」と言う声を聞くや否や、「私、理沙。今リッチモンド駅の北側の喫茶店の前にいるんだけれど、至急来てくれない?」と早口で言った。
「えっ?どうして」
「事情は来てから話すわ。大至急来て」
 理沙のいつにないパニック状態の声を聞いて、省吾も何か緊急事態が生じたことを感じたのか
「すぐ行くよ。場所が分からなくなったら、また電話するから」と言って、電話を切った。
 時計を見ると十二時十五分になっていた。
 省吾が大学にいるのかアパートにいるのか聞き忘れたが、どちらにしろ省吾が急いできても、三十分はかかる。
 それまで、ムハマドがのんびりカフェにいるかどうか、それが心配になってきた。しかしたとえカフェでの会話が聞かれないにしろ、このままずっと一人で監視を続けるのは無理である。理沙一人だと、トイレに行きたくてもいけない。いらいらしながら省吾を待つこと三十分。省吾が息を切らせて理沙の前に現れた時は、ムハマドはまだ男と話しながら昼ごはんを食べていた。
「どうしたんだ?」と肩で息をしながら聞く省吾に、理沙は今までのいきさつを話した。
「あそこにアラブ系の男が二人座っているでしょ?顔は見えないけれど、こちら側に座っているのがムハマドなの。彼らの会話が聞こえるところに座って、会話の内容を聞いて欲しいの」
「でも・・」
「でも、なんなの?」
「二人がアラビア語かなんかで話していたら、僕お手上げだよ。アラビア語なんて知らないからね」
「そうだ。だったら、EMRを使って。これだと言葉に関係なく、心の中で考えていることが分かるから。」と言って、理沙はEMRを省吾に渡した。
「あ、そうそう。それから、携帯持ってる?」
「え?勿論持ってるけどどうして?」
「携帯で二人の写真が取れたらいいんだけれど、無理かな?」
「無理かもしれないけれど、努力してみるよ」
 省吾はEMRを耳につけて、
「じゃあ、行ってくるよ」と、カフェの中に消えて行った。その後ろ姿を理沙は不安な面持ちで眺めた。
 省吾が中に入って十分も経たないうちに、ムハマドと彼の連れが出てきた。理沙は慌てて、二人に顔を見られないように、いかにもカフェの窓に貼り付けられたメニューをみているようなそぶりをして、彼らから顔をそむけた。幸いにもムハマドは話に夢中になっていて、理沙のことには気がつかないふうだった。ムハマドはカフェの外で連れと別れて、『ジーンズ・オンリー』の店のほうに向かって歩き始めた。どうやら店に帰るようである。彼の連れはリッチモンド駅のほうに向かって歩き去った。一瞬ムハマドの連れの男の後を追っていこうかと言う思いが頭を掠めたが、省吾から話を聞くのが先だと思いとどまった。
 カフェから出てきた省吾の顔は、興奮のためか赤くなっていた。
「どうだった?」と聞くと、
「二人の欧米諸国に対する恨みつらみは、すごいね。圧倒されちゃった」
「で、どこを爆破するか、聞き取れた?」
「いや、テロ爆破の話は一つも出てこなかったよ。そんな内密のことをこんな公の場で話すはずないじゃないか」
「それもそうね。で、どんなことが聞けたの?」
「二人の会話にアバスという名前が何度も出てきたが、何者かは分からない」
「そのアバスもテロリストってわけ?」
「さあね。そこまでは分からなかった」
 理沙は遠くに見えるムハマドの後ろ姿を見て、
「どうやら店に帰るようだわ。あの店の向かいにカフェがあるの。そこでお昼でも食べましょうよ」と、省吾を誘った。
 省吾と理沙はムハマドの行き先が分かっているので、たいして急ぎもしないで、カフェに行き、ハンバーガー-を注文して、「ジーンズ・オンリー」の店がよく見える道路わきの席に腰掛けた。朝から行っていなかったトイレにも行き、理沙はやっと人心地ついた気持ちになった。
「ところで、写真、撮れた?」
「うまく写っているかどうか分からないけれど、一応撮ってみたよ」
「じゃあ、それを私の携帯に送ってくれる?」
「いいよ」と言うと、省吾はその場で写真を理沙に送ってくれた。
 理沙は送られた写真を見て、満足そうに言った。
「よく撮れているわ。ありがとう」
「ところで、もう、警察には連絡したんだろ」
「そう。今朝、ハリーが電話したから、私はてっきりすぐに誰かがムハマドを逮捕しに来ると思ったんだけど、誰も現われないの。きっとハリーの電話は真面目にうけとめてもらえなかったんじゃないかと思うの」
 理沙はそういって、ウエイトレズの運んできたハンバーガーを口に頬張った。
「でも、こんなことは、僕達が心配することでないよ。警察に任せればいいんだよ」
 省吾の言うことはもっともである。
「そうね。私も今朝からずっと緊張のしっぱなしだったから、疲れてきたわ。警察が今来るか今来るかと待っていたんだけれど、まだ来そうもないし、もう家に帰ることにするわ」
「それがいいよ。きっと今晩のニュースで、どうなったか分かるはずだよ。EMRを返すよ」
 省吾からEMRを受け取りながら、理沙は感慨深げに言った。
「このEMRって、すごいと思わない?まあ聞かれるほうとしては、聞かれたくないことを他人に聞かれていると思うといい気はしないとは思うけど」
「僕の思っていることも、聞いたんだろ?」
 急に、省吾は目を細めてまぶしい物を見るように理沙を見た。理沙は、その省吾の特別な意味を含むまなざしに出会い、とまどいを感じた。
「ええ、聞いたわ」
「で、君は、ぼくのことをどう思っているんだ?」
 ここで、省吾にそう問い詰められると、理沙は返事に窮してうつむいた。しかしやはり、省吾の心を一時的に傷つけることになっても、今本当の気持ちを言わないと、今までの省吾との友情も永遠に失ってしまうと理沙は恐れを感じた。だから、思い切ったように顔を上げて言った。
「省吾は、私のいいお友達。男として考えたことないわ。ごめんね」
「何も、謝ることはないじゃないか。謝られると、何だか自分がみじめになってくるよ」
「そんなつもりで、謝ったんじゃないわ」
「それは、分かっているけれど」
「省吾とは、いつまでも気の置けない友達でいたいのよ。だから、省吾には私以外の彼女を見つけて欲しいわ」
「分かった。もうこの話はこれくらいにしよう」と言うと、伝票をわしづかみにして、省吾は出口に向かった。急な省吾の突拍子もない行動に、理沙は一瞬あっけにとられたが、慌てて彼の後を追った。
 会計でお金を払おうとする省吾に、
「いくらだったの?割り勘にしましょうよ」と理沙は声をかけたが、まるで理沙の声が聞こえないかのように、省吾はさっさと会計を済ませると、通りに出た。そして、
「僕、これから大学に帰るけど、君はどうする?」と理沙に聞いた。
「私は家に帰るわ。まだ家の中も片付いていないから」
「そうか、じゃあ、これで」と言うと、省吾はさっさと駅のほうに向かって歩き去った。
 理沙は、省吾の後ろ姿を見ながら、自分の方がみじめな気持ちになった。省吾は本当にやさしくていい人。でも、彼に抱かれてみたいなんて一度も思ったことがない。だから、結婚を前提につきあうなんてできそうもないと思った。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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