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私のソウルメイト(15)

 うちに帰ると、電子メールを開いてみた。最近サイモンからなんの連絡もなく、仕事がしばらく途絶えていたが、またサイモンからのメールが入っていた。今度日本の精肉会社の社長の跡取り息子が、精肉工場の見学に行くので、その通訳をしてくれと言う依頼だった。精肉工場と言うのは、余り気がすすまなかったが、好奇心も手伝って、「やります」と返事をした。
 翌日の10時、指定のホテルにその跡取り息子を迎えに行くと、ダイアナと余り変わらない年の男が待っていた。まだ大学の3年生だそうで、名前は山下守と言った。背は余り高くないが、がっちりした体格で精悍な感じがした。将来の社会勉強のためにオーストラリアに行って精肉工場を見て来いと父親から言われて来たということで、物怖じするところが全く見られず、社長の息子としての自信のようなものがうかがえた。タクシーで、工場に向かう途中、それだけのことが分かった。
 目指した工場は、町外れの人家の見られない、草原の中にあった。その理由はすぐに分かった。屠殺するためにつれて来られる牛や羊を満載したトラックが、ひっきりなしに出入りするからだ。こんな工場の傍に家を建てたいと思う人はいないだろう。私は、屠殺の現場に案内されたら卒倒するのではないかと、タクシーを降りたとたん不安に陥れられた。私たちを出迎えたのは、50代前半と思えるイタリア系の出身と思われる工場長だった。工場長が、屠殺場の方に行かず、肉の処理工場に向かったときは、私は内心ほっとした。私の様子をにやにやしながら見ていた山下は、「僕、もう屠殺の方はシドニーで見てきたので、今日は、肉の処理だけを見せてもらうようお願いしていたんですよ」と言った。しかし肉の処理工場も、余り気分のいいものではなかった。工場の建物に入ったとたん、血と肉の腐ったような強烈なにおいが鼻をついた。私は思わず手で鼻をつまんで、顔をしかめた。しかし山下も工場長も、においは余り気にならないようで、何事もないように、話を続けた。
「ここでは、毎日500頭の牛を処理しています。この工場では50名の従業員がいまして、朝7時から始業し、午後3時には仕事を終わります。」
「この隣の棟で、牛を射殺して、その後、それぞれの部分を切り取り、シュートで落としてきます。ここでは、牛の舌をシュートで落としてくるので、落とされてきた舌を切り取って箱に詰め込む作業をしています」
 最初に工場長が案内してくれたセクションには、私と同年代と思われるおばちゃんたち10名が、白い制服に白いエプロンをつけ、頭には白いキャップをかぶって、楽しそうにおしゃべりをしながら、舌のよけいな部分を切り取っては箱に入れていっていた。私は吐き気がしそうなのを我慢することで精一杯だった。この強烈な肉の腐ったようなにおいと、牛の舌のべろっとした感触に何の抵抗も感じないようなこのおばちゃんたちが違った星の住民のように思えた。
 次は、頭や足を切り取られ、皮をはがされて肉の塊だけになった牛の胴体が、フックに吊り下げられ、コンベアでゆっくり回っているところに案内された。ここでは、肉を切り取る作業をしているのが、これはかなりの体力を要するためか、このセクションの作業員は全員男であった。ここの作業員も白いコート、白いキャップと、白尽くめの制服を着ていたが、その白い制服も全員血が飛び散って赤くなっていた。ここでは楽しそうなおしゃべりをする光景は見られなかった。皆それぞれ自分の前に回ってきた牛の胴体から自分の割り当てられた部分の肉を黙々と切り取っていた。
 通訳の仕事自体はたいした労力はいらなかった。肉の部分の名前を英語と日本語で頭に叩き込んできたのだが、山下は専門用語にはなれているとみえ、たいして訳すこともいらなかった。しかしうちに帰ったとき、精神的にぐったりしたのは、あの強烈な牛の死体のにおいのせいだった。その晩、アーロンがステーキを焼いたが、私は見ただけで吐きそうになり、食欲がないと、すぐに寝た。その晩、あの楽しそうにおしゃべりしているおばさんたちの手元の牛の舌が脳裏について離れなかった。そして、ドフトエフスキーの小説にでてきた一文を思い出した。
「人間はどんなことにでも慣れることができるものだ」

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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