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私のソウルメイト(18)

 その晩アーロンが、「今度の結婚記念日、どうする?」と言い出して、私は2月11日の結婚記念日をすっかり忘れていたことに気づいた。私達の知り合いで、夫婦とも初めて結婚記念日を忘れていたと笑って話していた人たちが3ヵ月後に離婚したのを思い出し、私たちも危なくなってきたのではないかと思った。結局、結婚記念日になる再来週の木曜日は、フランス料理のレストランに行くことに決め、私が予約を取った。
次の月曜日は、BTのパートの社員として初めて出勤した。万が一ロビンと会ったときのことを考えて、黒いスーツとハイヒールで身を固め、香水をふりかけ、思いっきりのおしゃれをして、出かけた。家から駅まで車で行って、駅の駐車場に車を止め、電車に乗った。メルボルンでラッシュアワーに乗る電車は初めてだった。ここも日本と同じように、電車は込んでいた。おまけに日本の電車にあるようなつり革がないので、乗客は皆捕まる棒のある電車のドアに固まる。だから、奥は空いていても電車に乗れず、電車を一つ見逃さなければならなかった。皆に押しつぶされそうになりながら、ドアの傍の棒にしがみついていると、ハイヒールを履いてきたことが悔やまれた。会社に着いたときは、大仕事をした後のような疲労感を感じた。こんな調子では何日もつかしらと不安になった。
会社では、コンピュータの前に座ったら、誰と話すこともなく、黙々とキーボードを打ち続ける作業を続けた。翻訳の仕事は孤独な作業だ。回りにも社員がいたが、誰も知る人がおらず、昼ごはんも一人で近くのお店でサンドイッチとコーヒーを買って、会社のそばにある公園のベンチに座ってすませた。その日は、結局誰と口をきくこともなく、退社した。勿論ロビンをみかけることもなかった。
 次の日は、京子と約束したとおり、京子のアパートに12時に出かけていった。ドアのチャイムを鳴らすと、すぐに京子がドアから顔を覗けた。
「入って!」と招きいれられた部屋は、前に見に来たときに比べて、一段と大きく見えた。それもそのはずである。家具が入っていないからである。
「家具屋さんは今日配達してくれると言っていたんだけれど、手違いがあったからって、また来週に引き伸ばされたわ」と京子はぷりぷりしている。
「京子さん。何年この国に住んでいるの? お店の人が配達しますとか言っても配達日に来るなんて、奇跡が起こらない限り、この国では絶対ありえないわよ」
「そうね。そこんところ、忘れていたわ」と京子は苦笑いをした。
「まあ、シャンパンを‘持っていたから、一緒に飲みましょ。グラスはあるんでしょ?」
「まあ、グラスくらいは買ってあるわよ」
グラスにシャンパンを注ぎながら、京子は聞いてきた。
「ロビンの会社は、どう?」
「パートの翻訳者だから、会社の片隅に机とコンピュータをあてがわれて、朝から夕方までしこしこ翻訳しているわよ」
「それで、ロビンには会えたの?」
「私も会えるかなって期待していたんだけれど、それが全然だめなの。彼は23階に住む雲の上の人なのよ」
「そうか。じゃあ、後悔してるんじゃない?会社勤めなんか始めて。私はスーパーのパートやめて自由の身になったわ」
二人は話しながら、シャンパンのグラスを持ってバルコニーに出た。バルコニーでは車の騒音が聞こえ、街中なのを思い出させた。
「あなたがうらやましいわよ。まだ後悔をするところまで言っていないけど、多分このままいくと3ヶ月が会社勤めの限度かな。今は新しいことばかりで物珍しいからいいんだけど、慣れてくると、退屈な仕事だと思うわ。だって技術用語って限られているもの。あんまり、チャレンジにはならないのよ。ところで、退行催眠してくれそうな人、見つかった?」
「うん、聞いてきてあげたわよ。どっかの紙に書いたんだけど、、」とハンドバッグの中を探し始めた。
「ああ、あったわ、これ」
手渡された紙には
「Dr. Keith McNamara, 342 Burwood Highway, Burwood」と書かれていた。
「お医者さんなの?」
「そう、精神科医で、退行催眠もやってくれるそうよ」
「精神科のお医者さんなんて、ちょっと抵抗あるなあ」
「もとこさんって、オールドファッションねえ。このストレスの多い世の中で精神科医にかからない人の方が少ないんじゃない。エミリーだって、先日かかったわよ」
「えっ?エミリーが?」
「そう。何に悩んでいたのか知らないけれど」
「何に悩んでいたのかも知らないの?」
「そんなに、親失格みたいな非難めいた口調はやめてほしいわ。そう、分からないけど、どうやら解決したみたいで、最近少し元気になったわ」
私はダイアナとエミリーがいつも一緒にいるところが目に浮かんだ。もしかして、彼女たちはレスビアンなのかなと言う思いが頭を横切った。
太陽の光がぽかぽか顔に当たり、気持ちよかった。
「私、それじゃあ、このマクナマラ先生に連絡してみるわ」
「私もついて行っていいかしら。面白そうじゃない」
「予約が取れたら、教えるわ」
素晴らしいアパートもソファもないので、居心地が悪く、私たちはすぐにアパートを引き上げた。

著作権所有者:久保田満里子


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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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