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ハンギング・ロック:後藤の失踪(2)

会議室から出るとすぐに、香川さんが日本語で言った。
「なによ、せっかく考えたアイデアにけちをつけるなんて」
 香川さんはお冠である。
日本語は、学科の他の人に聞かれたくない話が堂々とできるからこういう時便利だ。
「それじゃあ、今まで通り、翻訳のアルバイトに精を出してお金を稼ぐ以外ありませんな」と僕はさばさばした表情で言った。だって、反対されてどうしようもないものをいつまでもうじうじ言っていたって仕方ない。
「私達、翻訳するために雇われたんじゃないんですからね。まったく、もう」と狩野さんが憤懣やるかたないと言った風に言うと、香川さんが言った。
「翻訳ならまだましよ。私がこの大学に勤め始めたときなんか、教室のカーテンがあまりにもボロボロなんで文句言ったら、それじゃあ、カーテンの生地を買ってあげるから、うちで縫ってきてくださいとマネージャーから言われたわ」
「へえ、そんなこと、あったんですか」と狩野さんは信じられないという顔をした。
香川さんが別れ際に行った。
「明日は大学に来ませんからね。よろしく」
「何かあるんですか?」と狩野さんが興味津々な様子で聞いた。香川さんはまだ独身だからロマンスの花でも咲いたのかと好奇心を燃やしたのだ。
「今度ウイットラム大学で日本語の教師を初めて雇うことになったけれど、日本語が分かる教官がいないので、選考委員になって欲しいって頼まれたのよ」
「それは、ご苦労様です」と僕は言った。
僕と狩野さんは採点の続きが残っていたが、する気になれず、その日はお互いに半分ずつ答案用紙をうちに持ち帰って、うちで担当部分の採点をすることで話がまとまった。

11月26日
 僕と狩野さんは9時半に会う予定だったのだが、狩野さんは9時45分になっても現われない。いつも時間厳守の狩野さんが連絡もなく遅れることは今までなかったことなので、僕は時間がたつに従って不安になってきた。しかし10時を過ぎると、不安が怒りに変わっていった。普段は5分なんてすぐに経ってしまうのだが、待つ身になると1分でも長く感じられる。いらいらしながら何度も腕時計を見るのだが、狩野さんはなかなか姿を見せなかった。10時半になったので家に電話したが、留守番電話が回り始めたので、そのままメッセージを残さず電話を切った。狩野さんは携帯を持ってはいるが、普段はスイッチを入れていない。だから無駄だとは思ったが、ためしに携帯にも電話を入れてみた。だが、案の定、スイッチは切られたままだった。
 狩野さんが大学に現われたのは11時過ぎだった。憔悴しきった顔の狩野さんを見ると僕は怒りよりも心配のほうが先だって、怒鳴りつけようと出かかった言葉を飲み込んだ。
「どうしたんだよ」
息を切らせながら、僕の研究室に現われた狩野さんは、呼吸を整えるのに少し時間がかかった。やっと、息が正常に戻ると、遅れた理由を話し始めた。
「きのう採点するのに午前2時までかかっちゃってね。今朝ちょっと頭がぼけていたんだと思うの。答案用紙を入れたブリーフケースを電車に置き忘れちゃってのよ。ブリーフケースがないと気づいた時は電車はプラットホームを出て行ったところだったのよ。それで、何とか電車に置き忘れたブリーフケースを取り戻そうと、メルボルン中駆け回っていたのよ」
僕は真っ青になった。答案用紙がなくなったら、学生の成績が出せなくなってしまう。
「で、みつかったの?」

焦って聞いた。
「はい、これ」と狩野さんは僕の緊張で引きつった顔の前に答案用紙の入った袋を差し出した。
「近頃自爆テロのことなんかあって、皆神経がぴりぴりしているでしょ?だから、持ち主のいないブリーフケースが座席に置き去りにされているって言うんで大騒ぎになったんだって」
僕はそこまで聞くと、安心して、頬がゆるんだ。
「やれやれ。ともかく答案用紙が無事でよかったな。失くしたら責任問題だよ」
「そうなの。もう答案用紙はうちにもって帰らないことにするわ」と狩野さんもほっとした表情でため息をついた。
 採点は午後3時に終わり、その後は僕が点数を読み上げ、狩野さんがコンピュータに点数を打ち込んでいった。後はコンピューターで合計点を出し、事務官に電子メールで送れば、採点終了である。全ての作業が終わったところで6時になっていた。
僕は家に帰っても誰も待っているわけではないので、狩野を晩御飯に誘ってみようと思い立った。
「明日は週末だし、今晩一緒に晩飯でも喰いに行かない?」
「悪いけど、夕べあんまり寝ていないので、疲れたから今日は早く帰って寝るわ」と言って狩野さんはそそくさと家に帰ってしまった。僕は狩野さんに5回に2回は誘いを断られる。狩野さんは博士論文にも取り掛かっており、僕のように仕事の後は自由な時間をもてるわけではないのが分かっているから、僕は彼女に断られても余り気にしない。彼女と別れた後は、僕はまっすぐ自分の小さなアパートに戻った。離婚して妻と財産を半分ずつに分けた後、毎月二人いる子供の養育手当ても払わなくてはいけないので、お金の余裕はあまりない。僕はその夜飲み仲間の伊藤に声をかけて、うちで一緒にワインを飲んだ。

(「後藤は狩野さんが好きなんだわ。可哀想に、余り相手にされていないようだけど」と、聡子は読みながら苦笑した。)

著作権所有者:久保田満里子

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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