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ヒーラー(14)

その顔は北朝鮮の独裁者、キム・チュンサンの顔だったのだ。いつもテレビのニュースなどで見るキム・チュンサンは丸顔でメガネをかけていたが、私の目の前のキム・チュンサンは頬もこけ、重病人の様相を呈していた。目を閉じているため、起きているのか、寝ているのか分からなかった。しかし、病人がキム・チュンサンだと分かった今、私は自分の置かれた状況をはっきりと理解した。キム・チュンサンが死ねば、私も殺されるだろう。それに、私の祈りで治ったとしても、生きて帰れるかどうか分からない。

私は黙ったままキムを見ると、キムは私の言いたいことを理解したかのように

「そうです。おじのキム・チュンサンです」と静かな声で言った。

「おじさん。有能な祈祷師を連れてきましたよ」と耳に口を近づけて言った。総書記長は目を閉じたまま微動もしなかった。ただ異常に大きないびきをかいていた。

キムは私に向かって、「この椅子に腰掛けてください」と木の枠でできた花の模様の刺繍がたくさん入っている重々しい感じの椅子を私に勧めた。私は椅子に腰をかけ、キムに向かって

「二人だけにしてくれませんか?人が側にいると気が散ってしまうんです」と言うと、思いがけずあっさりと、

「そうですか。それでは、僕はまた1時間後に戻ってきます。よろしくお願いしますよ」と答えが、キムは音も立てずに部屋を出て行った。

私は一人でキム・チュンサンの顔を眺め、うわさで聞いていた、この北朝鮮の独裁者の残酷さを思い出した。民衆が飢饉で飢えに苦しんでいるのを尻目に、兵器を買い求め、自分の権力を増長させることしか考えない男。彼に反対する者は拷問にかけて殺すという恐怖政治。麻薬の密輸や偽金作りで国費を得ようとするやくざまがいの行為。北朝鮮の周囲の国々が話し合いをしようとなだめすかして、やっと話し合いの場に参加させても、自分の旗行きが悪くなるとすぐに参加拒否をする身勝手な男。日本や韓国で多くの人間を拉致して知らぬ存ぜぬで貫きそうとする男。この男のために、どんなに多くの人が苦しめられているのか。そう思うと、こんな男は死んだほうがいいのだと、ムクムクと憎悪の塊が私の胸の中で膨らんでいき、喉がつかえた。しかし、この男の病気を治せなかったとき、はたしてキムは私を無事にオーストラリアに返してくれるだろうか?ジョンは無事だろうか。憎しみと恐怖が波のうねりのように交互に私の心を押しつぶした。私は美佐の夫のマイクのことを思い出した。マイクは殺したくもない人間を殺す羽目になり、生涯その罪悪感にさいなまされていたのだが、私は救いたくない人間を救わなくてはいけない状況に立たされてしまった。全く逆の立場である。イエス・キリストは自分を苦しめた人間を許したが、私はキム・チュンサンに直接的な被害はこうむらなかったものの、彼の犠牲になった多くの人々のことを考えると、そうそうたやすくこの男を救うために祈る気にはならなかった。私はどうすべきなのだろう?キム・チュンサンの無防備な顔を見ながら、心が乱れた。心の葛藤はどのくらい続いたのか分からない。結論を出すまで10分はかかっただろう。ともかく祈るだけは祈ってみよう。もしも彼が快癒しないようであれば、それは神の思し召しとみなすべきだろう。自分の役割は、彼の快癒を祈るのみ。そう思い定めると気が楽になり、両手を頭にそっと当て、目を閉じて、心の中で、「病気が治りますように」と繰り返し言った。暖房は効いているが暑くもない部屋なのに、額から汗が噴き出た。手はいつものように電流が流れるようにびりびりする。その部屋の中では時間の流れが止まっているようだった。のゴーッと言ういびきだけが聞こえる。

永遠に祈り続けているような、そんな感覚になっていたとき、急に肩をこづかれて、はっとなって振り向くと、キムが厳しい顔をして立っていた。

「おじは、まだ目覚めませんね」

私を非難するような口調だった。確かにチュンサンの病状には何の変化もみられなかった。

「できるだけ、やってみたのですが」私は弱弱しく答えた。

「一休憩して、またお願いしますよ」

そういわれて、突然疲れがたまった澱のように私を襲った。オーストラリアから北京に行くまでの飛行機の中でうつらうつらしたものの、拉致されてからほとんど寝ていない。はりつめた琴線が切れるように今までの緊張が一気に取れると、頭がボーっとなってきた。

キムに連れて行かれた部屋にはベッドがあった。私はキムが部屋を出て行くやいなやベッドに倒れこみ、そのまま眠ってしまった。何時間寝たのか分からない。時計がないので、時間の感覚がすっかりなくなってしまった。窓からもれる光で目が覚めた。すると、その前の晩に見たやつれたキム・チュンサンの顔が目に浮かんだ。そうだ。自分はあの男を助けるために拉致されたのだ。あの男を助けられなかった時のことを想像すると、背中がぞくっとした。

私が起き上がって、これからどうすればいいのだろうと思い悩んでいると、部屋のドアが開き、朝食を持ったキムの部下が入ってきた。まるで、その部屋には監視カメラが取りつけられているかのように、絶妙のタイミングだった。実際、監視カメラが取り付けられていたのかもしれない。キムの部下はベッドのそばのテーブルの上に、朝食を載せた盆を置くと、「食べてください」と韓国語訛りの感じられない英語で言った。私は、その男が部屋を出て行くと、飢えた動物のように、すぐにパンをぱくつき、ハムエッグを口に頬張った。果物を食べ、オレンジジュースを飲み、紅茶も全部飲んだ。盆に載っていた朝食を全部きれいに平らげると、一息ついた。ベッドから出ると、着替えようにも着替えの服がないことに気づいた。自分の体をかいでみると、臭い。もう3日もシャワーを浴びていないのだから、無理もない。そう思っていると、ドアが開き、今さっき朝食を運んでくれた男が、「お風呂にご案内します」と言ってくれた。余計な口はきかないように言われているのか、その男は黙って私の前を歩いていき、風呂場に案内してくれた。まるでホテルの風呂場のように、真っ白の洋式の浴槽があり、その浴槽にはすでに水がはってあった。ここにも監視カメラが取り付けられているかもしれないなと思ったが、思い切って着ている服を脱ぎ、浴槽に足をつけると、浴槽の湯は熱くもなく冷たくもない適温だった。体を湯船につけると、気持ちよく、また眠気が襲ってきそうだった。浴槽を出ると、白いバスタオルと新しい衣服が用意されていて、それを身につけると、生き返った心地がした。浴室を出ると、キムが待ち構えていた。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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