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ヒーラー(29)

2時間走った頃、ソンジュが
「もうあと、10分で村に着くよ」と言った時、初めて日本に帰った時のことを想像することができるようになった。日本に帰ったら、すぐに父母に連絡して、オーストラリアの友人に電話してオーストラリアの私の家の様子を見に行ってもらおう。まだジョンが軟禁されているのかもよく分からない。ジョンを人質に取られて、無理な要求をされるのが怖い。そんなことを考えているうちに、車が止まった。
「もう着いたんですか?」そう聞く私の声は弾んでいた。
「そうだが、野上がどこにいるのか、まず探さなければ」とソンジュは言った。
後ろの座席から起き上がって見ると、まるで日本の戦前の農家を思わせるかやぶきの家が建ち並んでいた。フロントグラスを通して見えた景色は、月明かりに照らされた黒い海だった。さざなみが立っているところだけが銀色に光って見える。人影はなくシーンとしている。運転席のソンジュは、タバコを取り出し、火をつけた。オーストラリアでは喫煙する人が少なかったので、狭い車の中でタバコの煙を吐き出し始めたソンジュが、無神経な男に思えた。しかし、ソンジュも2時間半も誰かに見つからなければ良いがと冷や冷やしながら運転したであろうことを考えたら、文句も言えなかった。
ソンジュが一本目のタバコを吸い終わるころ、後ろで人の足音が聞こえ、びくっとした。そして私はソンジュと同時にその足音がするほうに目をやった。野上だった。ほっとすると同時に、野上が船を確保してくれたかどうか気になりだした。ソンジュは野上が車の傍らに来た時、助手席のドアを開けてやった。ドアが開くと冷たい空気が入ってきて、いっぺんに目が覚めた。野上が助手席に腰を下ろすやいなや私は、「船、確保できたの?」と聞いた。野上は助手席から首を回して私を見て、
「ええ。おじが承知してくれました。ただ日本に着いたら韓国へ移住したいと言っています。日本から違法出国者として北朝鮮に送り返されたんじゃ、死刑、運が良くても終身刑でしょうから」
「大変なことをお願いしているんですね。すみません」
「おじは韓国に脱出する機会がないか狙っていたそうで、いいチャンスだと言って、喜んでいました。ただ、日本の領域にたどり着く前につかまれば、命はないでしょう。洋子さんも、その覚悟はしておいてくださいね」
私は、大きくうなずいた。こんなに多くの人が私のために命をかけてくれていることに、ありがたいと思うと同時に、大きな責任を感じた。
「それで、野上さんやソンジュさんは、これからどうされるのですか?」
「私たちは、また任務に戻りますよ」
「それじゃあ、ここで、お別れなのですね」
「ええ。ともかくおじの船まで、案内しますよ。外は寒いですから暖かいものを着てください」と茶色くて重いが暖かそうなオーバーを渡してくれた。それを着て車の外を出たが、海からの風がびゅんびゅん吹き、寒さで顔がヒリヒリし始めた。野上の後をついて50メートルも歩いたところに、小さな漁船が待っていた。こんな船で日本海を渡れるのか、少し不安になった。その船に50歳ぐらいの男が立ってこちらを見ていた。野上が「おじの、ヨンスです」とその男を紹介してくれ、私だけが船に乗ると、野上とソンジュはそのまま岸に立ち、野上が「それじゃあ、お元気で。無事を祈っていますよ」と言って手を振ると、すぐに船は岸を離れ、大海に向かい始めた。ソンジュも手を振った。「ありがとう!」と言いながら私も手を振ったが、もうこの人たちに会うことはないのかと思うと、涙が出てきた。野上とは1ヶ月も毎日一緒にいたのだ。だから、野上との別れは特につらかった。

著作権所有者:久保田満里子
 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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