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カウラへの旅(2)

~~カウラに出かける日は空は青々としていて、9月中旬で春とはいえ、太陽の光がまぶしかった。しかし空気はひんやりとしていて、ジャケットを着て、デニスの運転する中古のトヨタ車に座った。
キャンベラの町を出たのが、午前10時半だった。キャンベラの町中を流れる川の川沿いを走るとすぐに郊外にでた。郊外を出ると交通量が減り、スムーズに車は走り始めた。そして、一直線の道に左右にブッシュと呼ばれる潅木が広がるのが目に入った。日本のように山はほとんどなく、行けども行けども、平坦な地に青い空とユーカリの潅木が見える単調な景色が続いた。途中のヤスという町で、昼食を取った。ヤスは典型的な田舎町で、町の中心にある大通りにカフェやアンティークなど小さな店があるだけで、その通りを抜けると、また家屋がまばらになってきた。カウラの町に着くと午後2時になっていた。190キロの道を休憩も含めて3時間半かかってきたことになる。
道中で、デニスがカウラについて知っている限りのことを説明してくれた。
「カウラ暴動が起きたのは、確か1944年だったな。僕が12歳のときだったからね。その頃、僕の両親は日本人やイタリア人の戦争捕虜の収容所があったカウラの近くに農場を持っていたんだ。暴動が起こった日は、日本の脱走兵がいるというので、カウラの収容所近辺では、非常態勢におかれたんだ。だからその日は学校に行かないで家に閉じこもっていたよ。うちの近くに住んでいたウィーアさんのところは、その日奥さんが一人でいたところ、農場に3人日本人の脱走兵がいるのを見つけたんだそうだよ。その奥さん、肝っ玉が太くて猟銃を持って、その脱走兵に近づいたら、皆武器を持っておらず、ぶるぶる震えていたそうだよ。奥さん、その日本兵たちを見るとかわいそうになって、自分で作っていたスコーンと紅茶をやったら、がつがつ食べたそうだよ。その間に娘のマーガレットに捕虜収容所に通報させたけれど、その脱走兵たちはオーストラリア軍の追跡軍が来るまでおとなしくしていたということだ。あとで聞いたところによると、その日は千人くらいの日本兵が脱走を図って、230人ばかりが死に100人余りが負傷したそうだ。脱走した後、首をつって死んだり、線路に身を横たえて自殺したものもいたそうだ。ともかく食べ物も十分に与え、自由行動もゆるして待遇は良かったはずなのに、どうして脱走したのか、僕たちには理解しがたいんだけれども、そういう事件があったんだよ」
「へえ。待遇が良かったのなら、どうして脱走したのかな。僕にも分からないな」と、良太は答えた。良太は日本史の授業でも第二次世界大戦のことはアメリカと対戦して日本が負けたくらいのことしか習わなかったので、オーストラリアとも対戦したと言うことは初耳だった。
カウラの中心から少しはずれたモーテルに荷物を降ろすと、デニスは、
「ここから、歩いて観光案内所に行けるから、行って見よう」と、良太を誘った。ずっと、車の中ですごしたあとなので、体を動かしたいと思っていた良太は、すぐに「イエス」と言って、うなづいた。
観光案内所は、モーテルから歩いて10分とかからない所にあった。中に入ると、一角に日本の人形が飾ってあった。良太は、ちょっと日本に帰った気分になったが、観光案内所の一角にあるオーディオルームに入ると、そんな気分は吹っ飛んだ。ミニチュアのような女の人が3Dのスクリーンに映し出されたように出てくると、いわゆる「カウラ暴動」の話をし始めた。良太の英語の聞き取り能力では、全部の説明が分かったわけではないけれど、「自分たちが捕虜たちに親切にすると、オーストラリア人の捕虜に親切にしてくれるだろうと思い、町の人達は、捕虜たちに親切にした。けれども戦争が終わると、多くのオーストラリア人の捕虜は飢えと病気、そして過酷な労役で死んでしまっていた」ということは、おぼろげに分かった。良太は自分が日本人だということを一瞬恥じた。
 

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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