Logo for novels

飛鳥の麗人(3)

大友皇子の予想に反して、最初少人数だった大海人皇子の軍勢は近江京に向かう途中で、どんどん地方の豪族の兵を加えて膨れ上がっていき、数万の軍になっていた。その上、朝廷方だと思われていた豪族の間で、仲間割れや裏切りも相次ぎ、勢いついた大海人皇子の軍は近江京に突入した。大友皇子は都は抜け出たものの逃げ場がなく、結局松前で首をくくって死んでしまった。

大友皇子の悲報を聞いた額田王は、十市皇女の身を案じて、すぐに十市皇女に会いに行こうとしたが、侍従から街中は今不穏な状態なので、外出をしないほうがいいと、とめられた。それで仕方なく侍従に都の様子を探らせた。

そわそわ部屋の中を歩き回って侍従の帰りを今か今かと待っていた額田王の前に、侍従があわただしく部屋に入ってかしずいたのは、3時間後であった。

「どうでした。十市皇女は、ご無事ですか?」

気が焦って聞く額田王の声は、うわずっていた。

「ご無事でございます」と言う言葉が戻ってきたとき、ほっと安堵のため息をついた。

「ああ、よかった。それで、葛野王は?」

「はい、十市皇女様と一緒に宮殿にいらっしゃるとのことです」

額田王は、今までの不安が去ると、へなへなとその場に座った。

「ただ…」

そのあと、侍従は言葉を続けた。

「朝廷にお味方された方々が、大海人皇子のご命令で、次々首をはねられている状態で、まだ処罰の決定されていない者もおり、そのご採決を待っているとのことです」

「と、言うことは、十市皇女が無事でいられるという保証はないということか」

「はい。でも、十市皇女様は、大海人皇子のご息女。よもや大海人皇子様が十市皇女様を殺めることなど、なさるはずがございません」

侍従は自信をもって言ったが、額田王は確信がもてなかった。大海人皇子一人が採決するのなら、勿論娘に危害を加えるとは思えない。しかし、大海人皇子の側にいる鸕野讚良皇女の勝気な目を思い出した額田王は、一抹の不安をおぼえた。居ても立ってもいられなくなった額田王は、自分の書く手紙など、読んではくれないかもしれないが、ともかく十市皇女と葛野王に危害を加えることだけはしないでくれと、大海人皇子に懇願の手紙をしたためた。そしてその手紙を侍従に持たせ、必ず大海人皇子にお渡しするようにきつく申し付けて、その返事を待った。

朝使いに出た侍従が戻ってきたのは、日も暮れかけた頃であった。

侍従の顔を見ると、額田王は侍従の挨拶の言葉も待たず、

「大海人皇子にお会いできたか?」と、聞いた。

「はい。大海人皇子様はお忙しそうで4時間待たされましたが、お返事を頂いてまいりました」と、侍従は恭しく両手でその手紙を差し出した。

侍従からひったくるように取って読んだその手紙には、次のようなことが書かれていた。

「懐かしい額田王、

そなたの手紙を受け取り、久しぶりにお前と過ごした日々を思い出した。

お前と十市は、私が大友皇子を死に追いやったことを恨んでいるやもしれぬが、大友皇子が天皇になったとき、まず大友皇子の政権を脅かすものとして、私の命がねらわれるのは、目に見えていた。お前も兄上のやり方をみていたであろう。ライバルになる者は容赦なく殺害していったことを。だから、やられる前に、大友皇子の政権をつぶしたのだ。

お前は十市のことを心配しているが、十市に手出しをするようなまねは決してしない。十市は私にとっても初めての大切な子なのだ。だから、安心してくれ。十市にも、そのように伝えてくれ」

大海人皇子の手紙からは、額田王と十市に対する思いやりが感じられ、額田王は壬申の乱が起こってから、初めて心安らかに眠ることができた。

翌日その手紙を持って十市皇女に会いに行った額田王は、十市皇女が夫の死の衝撃から床に就いたまま起きられなくなっていたのを知った。

寝ている十市皇女の枕元で、額田王は、大海人皇子の手紙を読んで聞かせた。これで、少しは十市皇女の気持ちが休まることを期待していたのだが、十市は上の空で聞いていた。そして、

「母上。私も大友皇子様と一緒に死にとうございました。たとえ生きながらえても、どのような未来が待っているのかと思うと、不安でなりません」と言うと、ハラハラ泣いた。

「そんな気弱なことで、どうするのです。葛野王を守れるのは、そなただけです」

額田王は、十市皇女を叱咤激励して宮殿を去ったが、十市皇女が生きる気力を失っている姿が目に焼きついて、心が痛んだ。

大海人皇子が即位し、天武天皇になってから、額田王は宮中にあがることがことがなくなった。それまで、大きな宴があれば、宮廷歌人として、必ず呼ばれていたのだが、呼ばれることもなくなった。それには皇后になった鸕野讚良皇女の意向があるのを額田王は、感じた。

著作権所有者:久保田満里子

関連記事

最新記事

カレンダー

<  2024-05  >
      01 02 03 04
05 06 07 08 09 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

記事一覧

マイカテゴリー