Logo for novels

おもとさん世界を駆け巡る(30)

ゴダイユは、
「また、ヨーロッパに舞い戻ろう。やはり日本では軽業師はいくらでもいるから、俺たちが興行しても、実入りは少ない」と言った。
おもとさんも、長い外国暮らしの後の日本には知り合いもほとんどおらず、閉塞感を感じていたので、すぐにゴダイユの提案に賛成した。
興行の皮切りは、住み慣れたイギリスの地方都市だった。どういうものか、ロンドンには足を延ばさなかった。
ゴザイユ一座のその時のメンバーはゴダイユとデンマーク生まれの娘のリトル・タケ、18歳だが、芸達者なカワイトミキチ、そして、長女のミニー・ゴダイユ、そしてまだ駆け出しのリトル・マツの5名で、この頃にはおもとさんは綱渡り芸から身を引いて、団員の世話をするのに専念し、舞台に立つことはなかった。イギリスの後は、フランスに行き、フランスのマルセイユから船に乗って南アフリカのケープタウンにも行った
南アフリカはイギリスが1880から1881年にかけて原住民と戦争をし勝利をおさめ、植民地としていた。だから白人が権力を握っていたため、ゴダイユ一座の顧客はもっぱら、白人だった。南アフリカで半年過ごし、1891年、おもとさんが48歳になった時、ゴザイユ一座はオーストラリアにいくことにした。英国郵船コピック丸というのが、南アフリカのケープタウンからタスマニアに行くというので、一座を引き連れて、やってきたのだ。タンナケルがオタケサンを連れて興行に行き、成功を収めたと聞いていたので、オーストラリアに行くことに決めたのだ。おもとさんの娘たちは、日本語が分からない。姉妹の間で英語を話しているのを聞いたおもとさんは、少し寂しい気持ちはしたが、外国暮らしが長いので、仕方のないことだった。
タスマニアに向かう船の中でおもとさんはミニーに蝶々の舞の芸をみっちり仕込んだ。
蝶々の舞と言うのは、紙をひねって蝶々を作り、その蝶を扇子を使って風を送りながらひらひら舞わせるというものだった。ミニーは最初は一匹から初めて、段々数を増やし、5羽まで上手に操られるようになった。タンナケルもこの芸ができて、舞台で披露をしていた。ミニーはまるで生きている蝶々飛んでいるような、錯覚をおこさせるほど、上達した。
タスマニアに到着したのは、1891年11月15日のことである。オーストラリアは夏も近いのに、タスマニアは海から冷たい風が吹いてきて、肌寒かった。タスマニアに2泊したものの、人口も少なさそうなホバートの町で公演しても採算がとれるかどうか分からなかったので、とりあえずメルボルンに行こうとゴダイユが言うので、おもとさんも、そうほうがいいと賛成した。二人とも、タンナケルからメルボルンで大成功を収めたという話を聞いていたので、メルボルンなら、採算がとれそうだと思ったのである。それからタスマニアからメルボルンに渡り、安いパブを見つけて、パブの二階に落ち着いた。それから公演の準備にとりかかった。まず公演会場を見つけることが先決だったが、12月26日のボクシング・デーの祝日から1か月間ゲイアティ劇場と言うのを借りる契約をむずび、ポスターを作成した。作成をするといっても、原画があるので、日付と場所を書き入れるだけである。それを貼る仕事は若い者に任せて、ゴダイユは新聞社に行き、公演の広告を出してもらうよう手配を付けた。広告には次のようなうたい文句を入れてもらった。
「この著名な一座は、オーストラリアに到着したばかりである。その前には、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカで公演し、無比の成功を収めた。本物の日本女性が大変豪華な衣装を着けて演技をするのは、世界中でこの一座だけである。」
アメリカにはゴザイユ一座は足を延ばしたことはないのだが、グレート・ドラゴン一座の座員としてアメリカで公演したことがあるので、アメリカでも公演したことがあるというのは、真っ赤な嘘と言うわけではないが。


著作権所有者:久保田満里子

コメント

関連記事

Melbourne Central

Cityのショップング・モールとしても とても人気

最新記事

カレンダー

<  2024-04  >
  01 02 03 04 05 06
07 08 09 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

記事一覧

マイカテゴリー