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船旅(18)

「どうしよう、どうしよう」とつぶやきながら、光江は右手を顎に当てて、部屋の中をクマのように歩き回った。ニールが乗船時間まで帰ってこないと、自分一人の旅になる。何とかして乗船時間に間に合うように、ニールに帰って来てもらわなければ、自分も下船して、香港に残ることを考えた方がいいのだろうか。
 5分ほど、思い悩んでいたが、急に「そうだ!」と思い出して、携帯の番号を押した。
「キティ文房具店」と男の声が応えた。
「トニーさんをお願いします」
「僕がトニーですが、どなたでしょうか?」
「ニール・マーフィーの妻の光江です」
「ああ、ニールさんの奥さんですか。まだお目にかかったことはありませんが、ニールさんはお元気ですか?」とのんびりした声が聞こえた。
「ニールは香港警察に連れて行かれて、朝から取り調べを受けていて、なかなか返してもらえないんです。どうしたらいいでしょうか?」光江の声は、泣き声に変わった。
しばらく沈黙があったが、
「何とかしましょう。心配しないでください」と、電話が切れた。
「何とかするって、どうするのかしら」と光江は思ったが、少し、気が落ち着いた。トニーがオーストラリアのスパイ組織を使って、何とか手立てをしてくれるだろう。
それからの1時間、立ったり座ったり、うろつきまわったりと、光江はそれでも不安な気持ちを捨てることができなかった。
時計を見ると8時になっている。あと1時間で船が出航する。こう時間が迫って来ると、トニーはただの慰めを言っただけかもしれないと、絶望的な気持ちになる。
腕時計に時折目をやりながら、バルコニーから港を眺める。もう、乗客は乗船し終えているだろう。そう思うと、いたたまれなくなって、船長に出航時間を遅らせてもらえないか交渉しようと、船長を探しに行った。デッキで見かけた船員に船長の居所を聞いた光江は、船長のいる操縦室に向かった。操縦室は勝手な入室禁止と書かれた札がドアに取り付けてあったので、光江はドアをノックした。ドアを開けて顔を出したのは、船長だった。
「どうしました?」
「船の出航時間を遅らせてもらうわけには、いかないでしょうか?」
「それは、無理ですね。すでに、港湾管理局に、出航手続きを提出していますから」
「そこを何とか変更できないでしょうか。夫のニールが警察に連れて行かれていって、まだ帰ってこないんです」
「え、そうなんですか」と船長は驚いて光江の顔を見た。
船長は自分の腕時計に目をやって、
「出航までにもう1時間しかありませんね。あと30分以内に税関手続きを済ませてもらわないと、ご主人に乗船してもらうのは、できなくなります。もし、ご主人が時間内に乗船しないようでしたら、奥さんは下船されますか?」
光江は、2者選択を迫られ、窮地に陥った。
「このまま、一人で旅を続けるか?それとも下船して、ニールが警察から解放されるまで待つべきか?」
迷っている光江を見て、気の毒に思ったのか、船長は、
「次の停泊地は横浜なので、横浜で下船して、ご主人を横浜で待つこともできますよ」と、もう一つの選択肢を提案してくれた。
横浜なら、下船しても、東京にいる姉の家に厄介になることができる。香港には知り合いもいないから、ホテルを探さなければいけないし、ニールを待つのなら、東京で待つ方が、心丈夫だと光江は思った。
「それじゃあ、ともかく、私だけでも横浜に行くことにします」と光江は答えて、しょんぼりと客室に戻った。


著作権所有者:久保田満里子
 

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2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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