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船旅(最終回)

救急車の中で、急に息苦しくなって、光江は声も出なくなった。そんな光江の口に、救急士が酸素吸入マスクがつけてくれて、少し息が楽になった。病院に着くと、すぐにベッドに寝かされ、医者の診察を受け、たくさんのベッドの並ぶ部屋に運び込まれ、そのベッドに寝かされた。酸素吸入マスクのおかげで、息苦しさも緩和し、咳もおさまった時、光江はニールと離れ離れになったことに気づいた。周りは殺気ばしる雰囲気に包まれ、光江はニールがどこにいるのか、聞くのがためらわれた。それに看護師が飲ませてくれた薬に眠り薬が含まれていたのか、光江は眠りに陥った。その前の晩からほとんど寝ていなかったから、眠り薬が入っていなくても、光江は眠ったことだろう。光江が目を覚ました時は、病室は電気が消されていて、夜のようだった。個室にうつされたようで、静けさに満ちていた。
「ニールはどこにいるのだろう?」
光江は不安になって、誰かを呼ぼうと思った時、看護師の顔が目の前にあった。看護師は帽子にマスク、ゴーグルのようなものをつけ、白い防護服を着ていた。
「ご加減はいかがですか?」
看護師の質問に答える前に、光江は聞いた。
「夫のニールもこの病院に運び込まれたはずなんですが、どうしているんでしょう?」
「そうですか。ご主人もクルーズ船から運び込まれたんですか。ちょっと受付で聞いて見ますが、光江さんの方は、もう大丈夫ですか?」
そう聞かれると、また咳が出始めた。咳き込む光江の背中をさすりながら、
「咳止めの薬を上げますから、飲んでください」と言って錠剤と水の入ったコップを手渡された。
光江が咳止めを飲んで、ベッドに横たわるのを見届けた看護師が、
「ニールさんのこと、調べてきますね」と言って、病室を出て行った。
咳が静まると、最後に見たニールの口を聞くこともできないくらい弱っていた顔を思い出し、「どうか、無事でいて頂戴」と祈るような気持で、天井を見つめた。
しばらくすると、看護師が戻って来た。
「ニールさんは、集中治療室にいるそうです」
「集中治療室?」
光江は聞いた途端、ニールが危篤状態になっているのを悟った。
「会えませんか?」
「残念ながら、できません。今はあなた自身が病気から快復するのをまたなければいけませんよ」と、看護婦は、とりつくしまがなかった。
「では、ここにボタンがありますから、これを押して、呼んでください。この病気は今まで誰も経験したこともない病気なので、治療法も確立していません。治療するにしても手探りの状態です。ともかく、私たちは全力を尽くして治療にあたっていますから、余り不安がらないでください」と言って、看護師は病室を出て行った。
「ニールが危ない」そのことだけが頭の中を駆け巡った。
実は、その時、ニールはすでに息を引き取っていたが、光江を落胆させないために、看護師が嘘を言ったのだ。
 光江の症状は1週間後改善し、酸素吸入マスクもいらなくなり、PCR検査で陰性と出た。
「光江さん、良かったですね。もう退院できますよ」と看護師から報告を受けた時、嬉しさよりもニールのことが気になった。
「ニールの症状はどうなんでしょう」と聞いた光江に、看護師は初めて、
「残念ながら、ニールさんは亡くなりました」と、告げた。
「亡くなった?いつのことなんです。今亡くなったんですか?」驚いて聞く光江に、看護婦は正直に「1週間前に亡くなりました」と答えた。
「1週間前だなんて、私が1週間前にニールのことを聞いた時、あなたはニールは集中治療室にいると言いましたよね。死んだなんて、そんなことなぜ今になって言うんです」
光江は看護師に嘘をつかれたと言うショックも手伝って、取り乱し、自分でも何を言っているのか分からなかったが、看護師をなじられずにはいられなかった。
「ニールが、ニールが…」と言うと、光江の目から涙が流れ始め、体を丸めて号泣した。しばらく泣いて、気を取り戻すと、「ニールの遺体はどこにあるんですか?見せてください」と言うと、光江を憐れんだように黙って見ていた看護師は、
「お気の毒ですが、感染拡大を防ぐために、すぐにご遺体は荼毘に付しました。退院の手続きが終わったところで、遺骨をお渡しします」と答えた。
それを聞いて光江は2重のショックを受けた。
 半年かけての船旅の予定は2か月で突然終わってしまった。メルボルン空港に迎えに来た子供や孫は、2か月の間に10歳も老けたような光江と、光江に抱きかかえられたニールの遺骨を見て、泣いた。
 光江は、ニールの死からなかなか立ち直れなかった。ニールが助け出そうとしたリーが、コロナ感染の元凶だと判明してからは、「ニールはどうして、退職した後も仕事を引き受けたのだろう。あの仕事を断ってさえいたら、ニールは生きていたのに」と言う思いが、光江の頭の中にいつまでも渦巻いた。

                 完

ちょさ



 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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