モンテンルパの夜は更けて(最終回)
更新日: 2026-10-04
加賀尾は、すでに処刑された者も日本に連れて帰りたいと思った。処刑された17名の遺骨を、遺族のもとに返してやりたいと大統領に願い出ると、大統領は快諾してくれた。加賀尾たちは、土に埋められていた遺骨を掘り起こし、供養して、黒塗りの木箱に入れた。7月15日、加賀尾は108名の元戦犯とともに、日の丸の旗を掲げた白山丸でマニラ港を出港した。皆囚人服から白いズボン、開襟シャツに着替え、晴れ晴れとした顔であった。その中には勿論代田と伊藤の顔も見られた。短い人でも9年ぶり、長い人にとっては15年ぶりの帰国だった。死刑囚の遺骨は、船の一等サロンに設けられた祭壇に安置された。
1週間の船旅は、帰国者全員、待ちわびる人に早く会いたいと言う思いで、長く感じられた。太平洋の荒波に船酔いを起こす者が続出したが、皆の心は高揚していた。フィリピンを出港して1週間後の7月22日午前8時半。やっと白山丸は横浜港に着いた。帰国者がデッキに出てみると、港は見渡す限り出迎えの人で埋めつくされていた。帰国者の家族は勿論、見も知らぬ人も、帰国者を歓迎するために来ていた。実にその数2万8千人にもおよんだ。その出迎えの中に、勿論渡辺はま子がいた。皆が下船し、はま子との再会を喜び合った後、はま子はおもむろに歌い始めた。
「モンテンルパの夜は更けて、つのる思いにやるせない…」
皆はま子の歌に耳を傾けた。この歌が皆を解放してくれたと思うと、うれし泣きをする者も多くいた。
そのあと、釈放されたものは家族に会うため方々に散り、死刑囚から無期刑囚に減刑された者たちだけが残された。無期刑囚が収容されることになっていた巣鴨プリズンの本田清一所長は、取り残された無期刑囚に、思わぬことを言った。
「今から一時間の猶予を与えるから、家族に会って来い。ただし1時間たったら、必ずここに集合するように。解散!」
この所長の言葉は無期刑囚だけでなく、巣鴨プリズン職員をも驚かせ、職員の一人が聞いた。
「所長、もし戻ってこない者がいたら、どうするつもりですか?」
「皆もう長い間家族に会っていないんだ。だから、1時間だけでも、家族に会う猶予を与えてやりたいんだ。もし、帰らない者がいたら、その時は、俺が責任をとる」
その職員の不安は杞憂に終わった。全員時間通りに帰って来たのである。
その年の紅白歌合戦で、渡辺はま子は、「モンテンルパの夜は更けて」を歌い、拍手喝さいを受けた。
1958年5月30日、戦犯専用に作られた巣鴨刑務所は、最後の18名の戦犯を釈放し、閉鎖された。その跡地に、池袋サンシャインシティの中核となるサンシャイン60という60階建ての高層ビルが建てられた。今ではそこに巣鴨刑務所があったことを知る人は少ない。
参考文献
「プリズンの満月」吉村昭 新潮文庫
文芸春秋2015年9月特別号「大特集 「昭和90年」日本人の肖像 抄録 岡部長景「巣鴨日記」210-225ページ
文芸春秋2015年9月特別号 「大特集 「昭和90年」日本人の肖像 A級戦犯・木村兵太郎(刑死)長男の訴え 父を靖国から分祀してほしい」198-205ページ
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「ああ、モンテンルパの夜は更けて」ウイキペディア
「ああ、モンテンルパの夜は更けて」解説
JOG180渡辺はま子 伊勢正臣







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