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船旅(23)

息苦しそうに荒い息をしながら、時おり咳き込んでいるニールを見て、光江は不安に陥った。早く、検閲官が来て、ニールの治療にあたってくれればいいのにと思っていると、部屋の電話が鳴った。
「ミセス・マーフィー?」
どうやら、リーの様子を知らせる電話のようだった。
「そうですけど」
「お尋ねになったリチャードさんのことですが、香港を出航して間もなく、病気になり、コロナ感染の疑いもあるので、部屋に隔離されています」
「え、そんなに早く病気になったんですか?」
「ええ。最初に症状が出たみたいです」
「そうですか。症状はどうですか?」
「少し熱がひいたみたいで、回復の兆しが見れるようです」
「そうですか。ありがとうございました」
受話器を戻すと、光江は複雑な気持ちに陥った。
「アマンダが命までかけて守ったリーが、もしかしたら、コロナをこの船に持ち込んできたなんて…」
そして、ニールの熱で赤くなった顔を見て、
「この人までリーのために死ぬことになったら、私、リーを許せないわ」と思った。
リーが自分が感染しているとは知らなかったとは思う。だから、リーに責任はないとはいえるのだが、理性的にはそう思えても、感情がついていかなかった。
 ニールは息苦しそうで、光江は話しかけることもためらわれて、ニールの顔を見守ることしかできなかった。
 光江がそんな不安を抱えてじっとしていた時、船長のアナウンスが聞こえた。
「この船は横浜港に着きました。すぐに、医療関係者が乗船して、病気の人を病院に搬送する手続きをし始めますから、それまで部屋に待機していてください」
 光江はやっと助けが来るのかとほっとするとともに、何人の医療関係者が応援に駆けつけてくれたのだろうかと、バルコニーに出て、外の様子を見た。
 防護服に身を包んだ数十人の姿が見えた。そして、その傍に待機している救急車が10台くらい見えた。この船の乗客は3千人。症状が出ている人が何人いるのか分からないが、数十名の医療関係者で、3千人も検査していくとなると、1日では済みそうもない。光江がそう思っていると、鼻水が出て来た。
「まさか、私まで病気にかかったんじゃないでしょうね」と、頭が真っ白になった。
すると、また船長のアナウンスが聞こえて来た。
「風邪の症状のある人を優先させて検査をします。風邪の症状のある人は部屋にある電話を使って知らせてください」
それを聞くと、すぐに光江は受話器をとり、コールボタンを押した。話し中の音が耳に入り、機械的なアナウンスが聞こえた。
「今、混雑しておりますから、しばらくお待ちください」
乗客が一斉に電話をしたらしく、なかなか電話は通じなかった。それでも、他になすすべもなく、光江は忍耐強く、待ち続けた。やっと電話がつながった時には30分経っていた。
「もしもし。こちら1302号室のマーフィーですが、主人は発熱していて息苦しそうです。早く医者を寄こしてください。それい、私も感染した疑いがあります。鼻水が出始めました」
「そうですか。では、検閲官に連絡をして、優先させて、そちらに行ってもらいます」
「どのくらい、待つことになりそうですか?」
「医療関係者の乗船が始まりましたが、症状のある人が300人くらいいるので、そちらに医療関係者が赴くのは、今日の午後になります」
光江は思わず腕時計を見た。針は9時半を指している。 
「そんなに長く待たされるんですか?」
「申し訳ありません。ともかくバルコニーの窓を開けて換気を良くしてください」
「分かったわ」と、光江は受話器を置くと大きなため息をつき、ニールを見やった。

著作権所有者:久保田満里子


 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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