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謎の写真(1)

川口良子は、友人のシャーリーの新築の家を訪れ、驚きの声をあげた。

まず、その大きさに、圧倒された。ベッドルームが5つ。ゆうに30人は入れそうな、大きな客室。トイレだって4つもある。しかし良子が一番興奮したのは、日本びいきの彼女が作った和室だった。畳の部屋に障子。床の間があり、床の間にはちゃんと椿の花が生けられ、山水画の掛け軸まである。部屋の隅には、まるで戦前のお金持ちの家から持って来たような古いけれども凝った細工がしてある水屋がある。鉄の輪が取っ手についており、戸も格子状になっている。今日本でも余り見れない凝った和室であった。新しい畳からイグサのにおいが漂ってきた。

「羨ましいわ。こんな素敵な家に住めるなんて」と、少し嫉妬の気持ちをこめて、良子は言った。良子は独身で、アパート暮らしである。シャーリーの夫は日本から工業用ロボットを輸入する会社の経営者で、夫の事業はしごく順調に行っているようである。

「一生に一度は、自分の気に入った家を建てたいと思っていたけれど、やっとその願いがかなったのよ。ここで、私の好きなお茶をたてることができるわ」と、シャーリーは良子の嫉妬に気がついたのか気がつかないのか、明るい声で、臆面もなく、嬉しそうに言った。シャーリーと良子は、茶道を通して知り合った仲だった。

家の中を全部案内したあと、シャーリーは、和室で良子にお茶をたててくれた。

良子がお茶を飲み終わると、シャーリーは思い出したように、

「そうそう。あなたに見せたいものがあるの」と言って立ち上がると、和室の片隅にある水屋の引き出しを開け、何やら取り出した。

「これ、見て」と、シャーリーが良子の目の前に置いたのは、古ぼけた写真だった。

良子は、誰の写真かととまどながらも手にとって見ると、写真の裏側に、「榮」と、書かれていた。サピア色の写真には、着物姿の若い女性が写っていた。ニッコリ笑った顔はおちょぼ口で、目元がすっきりし、鼻筋の通った、かなりの美人であった。日本髪をしているところを見ると、かなり古いものらしい。

「これ、だあれ?」と良子が聞くと、

「誰か分からないから、困っているのよ」と、シャーリー。

「この写真、誰かにもらったの?」

「そうじゃないのよ。あの水屋の引き出しの中に入っていたのよ」

「あの、水屋、どこで手に入れたの?」

「ハイストリートにあるアンティークのお店よ」

「じゃあ、そのお店で聞けば、水屋の元の持ち主が分かるんじゃない。明らかに、あの水屋の元の持ち主の物でしょうから」

「それが、聞いても、よく分からないのよ。まさか、粗大ごみの日に拾ってきたものではないでしょうけど」

良子は、シャーリーが粗大ごみの日なんて言葉を知っているので、思わず笑った。

「もしかしたら、そうかもしれないわよ。日本の粗大ごみって、中には新品と間違うような物も捨ててあることがあるから」と、良子はシャーリーをからかうように言った。

シャーリーは、良子の言葉を無視して、深刻な顔になって言った。

「この写真、随分古い物だと思うけれど、この写真の持ち主が生きていれば、持ち主に返してあげたいのよ。何か良い方法はないかしら」

「この写真の持ち主は、榮としか、書いてないから、苗字が分からないのね。それじゃあ、ちょっと難しいかもしれないわ」

「アンティークの店では、名古屋で手に入れたとだけ教えてくれたから、名古屋周辺を探せばいいんだと思うけれど」

「名古屋かあ。あっ!そうだ。新聞に広告出したらどう?」

「広告を出す?それって、私が広告代を払わなければいけないってこと?」

良子は、こんな大きな家の持ち主が、広告代をしぶるなんて、ちょっとおかしいと、笑えて来たが、シャーリーの気を悪くさせるのが嫌だったので、笑いをこらえて、シャーリーと同じように真顔になって言った。

「そう言えば、私の大学の同級生だった人で、今名古屋の新聞社に勤めている人がいるから、このこと記事にしてもらえないか、きいてみてあげようか?」

すると、シャーリーは目を輝かせて、

「そうすれば、持ち主、探し出せるわね」と、乗り気になった。

その晩、良子は早速大学時代の同級生の米川にメールを送った。

その返事は2日後に来た。

「デスクに話したら興味を持ってくれて、記事にしてもよいと言われた。もっと、詳しいことを説明してくれないかな。それに、その写真も送ってくれたら、その中の一枚を記事と一緒にのせたら、持ち主が現れる可能性が大きいと思うので、送ってください」

良子は早速そのことをシャーリーに電話して伝えると、

「すごい。このことが記事になるの?」と、シャーリーは大喜びして、写真を新聞社に送ってくれると約束してくれた。

シャーリーから写真を新聞社に送ったと連絡を受けて2週間後、良子は米川からメールを受け取った。

「川口さん、新聞記事ができたので、添付書類をみてください」とあったので、すぐに添付記事を読むと、「オーストラリアに渡った写真」と題して、次のように書かれていた。

「オーストラリアのメルボルン在住のシャーリー・ウイルキンソンさんが、去る3月5日にメルボルンのアンティークの店で水屋を買ったところ、水屋の引き出しから古い写真が出てきた。シャーリーさんは、この写真を是非持ち主に返したいと、当社に連絡してきた。写真には『榮』としか書かれていない。また、水屋は名古屋からオーストラリアに渡った物であることから、写真の持ち主は、名古屋あるいは名古屋近辺の在住者だと考えられる。写真を見て、心当たりのある方は、是非当社にご連絡願いたい」

記事と一緒にシャーリーの送った写真が載せられていた。良子が予想していたよりは、紙面を多く取った記事になっていた。

シャーリーにこのことを知らせると、シャーリーは大喜びで、

「どんな人が持ち主なのかしら?」と、期待でウキウキしている様子だった。

持ち主が現れるまで、どのくらいの時間がかかるのか良子は想像できなかった。もしかしたら無駄だったかもしれないが、今は待つのみだと良子は思った。そんな良子の予想に反して、思いのほか、早く持ち主が現れた。

米川から、記事が掲載されて3日後に連絡があったのだ。

「良子さん、持ち主が現れました。榮さんはすでに亡くなっていましたが、榮さんの孫だという前島豊という男性から、『榮は私の曾祖母です』と、連絡がありました。榮さんは前島栄さんと言って、2年前に87歳で亡くなられたそうです。来週写真を取りに来ると言う事で、写真を渡すことになりました」

良子がシャーリーに米川のメッセージを伝えると、シャーリーは、飛び上がらんばかりに喜んで、

「良かったわ。持ち主に返すことができて。私には何の意味もない写真だけれど、ひい孫さんにとっては、おばあさんの思い出の大事な写真でしょうからねえ。私、そのひい孫さんに会ってみたいわ」と、言い出した。

「じゃあ、米川君にその人の連絡先を教えてもらうね」と、シャーリーの意気込みに圧倒されながらも、良子自身もあの写真に写っていた榮がどんな人生を送ったのか、興味が湧いてきた。

米川に、前島豊の連絡先を聞くため、メールを送ったら、思わぬ返事が返ってきた。

「実は、連絡先は分かりません。本社に電話連絡があり、写真を取りに来たので、住所も、電話番号も、聞かないまま、写真を渡してしまいました。だから、連絡先が分からないのです。お役に立てなくて、すみません」

『そんな、無責任な!』と、良子は思ったが、米川を責めても、事態は解決しないことに気づき、米川を責めることはやめた。

ところが、シャーリに米川の返事を伝えると、カンカンになった。

「あれは、法的には私のものだったのよ。それをあげたんだから、お礼ぐらいされたってばちはあたらないと思うわ。新聞社だって、私の許可なくして、その人に渡すなんて無責任よ」

確かに彼女の言うことはもっともなので、良子は返す言葉もなかった。

「それに、私、その人に会いたいと思って、もう日本への航空券買ってしまったのよ」

「えっ!もう航空券も買ってしまったの?」

良子は自分が言い出したことがこんな結果になってしまって、申し訳なく思い、ついつい言ってしまった。

「じゃあ、私も日本に行って、その前島豊と言う人を探すの、手伝うわ」

「良子も行ってくれるんだったら助かるわ。私、日本語できないから、頼りにしているわ」

そういう訳で、良子は急遽、シャーリーと二人で日本に、前島豊探しの旅に出るはめに陥った。

著作権所有者:久保田満里子

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青い目の山田君

山田君と初めて会ったのは、去年の8月のことだった。

 去年の8月、銀行のコンサルタントとかいう人から電話がかかり、もっと有効にあなたの預金の運用ができるようにアドバイスをしますから来てくださいといわれた。もしかしたら詐欺師からの電話ではないかとおっかなびっくり銀行に行くと、背広を着て、紺色のネクタイを締めた30歳にもならないような青い目の好青年が私を待っていた。その青年が名刺を私に差し出しながら、「デイビッド山田です」と言うので、「えっ?」と思って、もう一度その青年の顔をまじまじと見た。青い目をして金髪のその青年は、どう見ても白人である。「山田って、日本の苗字だけれど、もしかしたら、あなたの先祖に日本人がいるの?」と聞くと、その青年はにっこり笑って、「ええ、うちのひいおじいちゃんが日本人だったんですよ」と言う。

「ひいおじいさん?じゃあ、もうかなり前に日本人がメルボルンにいたって訳ですか?」

 私は自分の無知をさらけ出してしまった。だって、日本は1854年まで鎖国をしていたわけでしょ?そして、1901年にはオーストラリアは白豪主義の政策をつらぬいて、日本人のような黄色人種を受け入れなかったと聞いているから、この青年のひいおじいさんと言えば、1868年から1901年までに間にオーストラリアに入国したって言う計算になる。

「ええ。でも僕のひいじいさんはメルボルンではなくて、ジーロングに住んでいたんですけれどね」

「で、あなた、日本語、話せるの?」と聞くと、

「残念ながら、話せません」

 私は自分の預金の話より、山田君の家系に興味を持った。

だから彼が私の今の預金の仕方では、預金をし始めた導入時のボーナスの利子がでつかないから、一旦預金をおろして新たに預金をしたということにしましょうと、その手続きをしてくれた後、彼を質問攻めにした。

「ひいおじいさんは、どうしてジーロングに来たの?」

「ジーロングで何をしていたの?」

私がしつこく聞くものだから、山田君は苦笑いながら、

「うちのおばあちゃんに聞けば、ひいおじいちゃんのことが分かると思いますからおばあちゃんを紹介してあげましょうか?おばあちゃんはひいおじいちゃんと血のつながりはないけれど、ひいおじいちゃんの息子と結婚して、ひいおじいちゃんの面倒をよく見ていたそうですから」と言ってくれた。私が日本人のせいか、山田君は私に親近感をもってくれたようだ。好奇心の塊になっていた私は、喜びで顔を綻ばせて

「そうしてもらえると、うれしいな」と答えていた。

 山田君が取り付いてくれたおかげで、山田君のおばあさん、山田ローズさんにその翌週の日曜日に、会うことができた。

 山田ローズさんは、90歳はゆうに越えているだろう。白髪でしわの目立つ顔ではあるが、鼻筋が通ってくりくりとした青い目の人で、若かりし頃はさどかし美人だったのだろうと思われた。しかしローズさんの記憶は90歳とは思えないくらい、鮮明だった。

 ローズさんは、「デイビッドから聞いたけれど、あなたは私の義父に興味を持っているんですって?」と開口一番に聞いた。

「ええ。私、歴史には興味があるんです」と言うと、本棚から古びたアルバムを引っ張り出してきて、テーブルの上に置いて、「これが義父よ」と指差して見せてくれた写真はセピア色だった。痩せて長細い顔に丸い黒縁のメガネをかけた日本人青年が立っている側に、はにかんだような笑いを浮かべているウエディングドレスの白人女性が椅子に座っていた。

「これは夫の両親の結婚式の写真よ」

「お義父さんはいつオーストラリアにいらっしゃったんですか?」

「1897年に来たと言っていたわ。そのころ日本は徴兵制があったので、兵隊に借り出されるのが嫌で、オーストラリアに密航してきたんですって」

「お義父さんは何をされていたのですか?」

「クリーニング屋だったの。義父の代のころは、日本人のクリーニング屋って多かったのよ。シドニーなんて23人もクリーニング屋を経営していた日本人がいたらしいけれど、このジーロングだって、義父と同年代くらいの日本人のやっているクリーニング屋って、3軒もあったのよ」

「そうですか。それじゃあ、山田さんのおうちは代々クリーニング屋さんをやっているってことですか?」

「そう。でも、第二次世界大戦が始まった時は大変だったわ。その時、すでに義父は74歳で、リュウマチもあって、寝たり起きたりしていたのよ。ところが、アメリカが日本から真珠湾攻撃を受けると同時に、オーストラリアは日本に宣戦布告をしたの。だから、その日のうちに義父は抑留されて、収容所に送られてしまったのよ。義母はオーストラリア人だったから収容所に送られずにすんだんだけれどね。それから夫と私はクリーニング屋を守っていくので大変だったのよ。『ジャップ帰れ!』と怒鳴る人たちに店に石が投げられて、窓ガラスを割られたのも一度や二度じゃなかったの。でも、オーストアリア人が皆が皆、私達を迫害したわけではないのよ。隣近所の顔見知りの人たちは、皆以前と変わらずつきあってくれたので、何とか生き延びれたの」

「収容所って、どこにあったんですか?」

「タチュラってメルボルンから180キロ内陸に入ったところ。シェパトンって知っている?」

「行ったことはないけれど、聞いたことはあります」

「そのシェパトンの近く」

「お義父さんが収容所にいらしたときの写真が、ありますか?」

「一枚だけ、あったわ」と、ローズさんがそのアルバムを数ページめくると、バラック小屋の入り口に座っている上半身裸の老人が写っている写真があった。

「これが、収容所にいた頃のお義父さんの写真よ」

まぶしそうに顔をしかめている老人の足元に、たくさんの下駄が脱ぎ散らかっているのが目に入った。

「オーストラリアの収容所では、下駄が配給されていたのですか?」と不思議そうな顔をして言う私を見て、ローズさんは吹き出した。

「まさか。これはね、収容所に入っていた人の中で手先の器用な人がいて、その人が皆に下駄を作ってくれたのよ」

「へえ、それじゃあ、日本のように小屋の中には土足で入らなかったってことですか?」

「そうみたい。それに関して義父からおもしろい話を聞いたわ。オーストラリア国内の敵国捕虜の扱いについて調査をしに来た国際赤十字団の人に、抑留者から一つだけ不平がでたんだそうだけど、何だか分かる?」

私はとっさに、

「食べ物を十分に与えられないということですか?」と聞いた。

日本でも戦争中は食糧不足で国民全員が大変な思いをしたと聞いていたから、きっと食料への不満が出たのだろうと私は推測したのだ。

すると、ローズさんは頭を横に振って、

「そうじゃないのよ。食べ物はふんだんに与えられて、待遇は悪くなかったっていうことだわ」

「それじゃあ、何が不満なのか、ちょっと見当がつきません」と私は、すぐに降参した。

「それはね、看守が土足で小屋に入ってきて、検査をすることだったの。看守に土足で上がらないでくれと何度も頼んだけれど無視されたと言って、文句を言ったらしいわ」

私は思わず笑ってしまった。だって、看守に暴行を受けたとかというのなら分かるが、そんな非常時に靴を脱がないなんていうことが唯一の不満だったなんて、とてもユーモラスに思われたからだ。

「お義父さんは、それでは収容所で亡くなられたんですか?」

「いいえ。でもね、タチュラって、何しろ内陸部でしょ?夏は暑いし、冬は冷え込むのが辛かったらしいわ。暖房は火事になったら困るというので全く許されなくて、空になった灯油缶に熱湯を入れてベッドの中に隠し持っていたこともあるけれど、すぐに見つかって取り上げられたそうよ。段々体も弱って動けなくなって、1943年の5月に釈放されたの。戦争が終わる2年くらい前ね。釈放の条件は月に一回警察に報告することと、家の5キロ範囲外に出てはいけないことだったのよ。クリーニングの仕事にかかわらないことも条件だったけれど、義父はとてもじゃないけれどクリーニングの仕事ができる状態ではなかったわ。ほとんど寝たきりだったんだから。でも、一度だけ義父に頼まれて警察に内緒で外へ連れ出したことがあるの」そういうローズさんは、いたずらっ子のようにニコッとした。

「どなたかのお葬式にでもいらっしゃったのですか?」

ローズはクスクスと笑い、

「そうじゃないの。映画を見に行ったのよ」

「映画ですか?どんな映画です?その頃日本の映画でもやっていたのですか」

「義父が見たがったのは、『風と共に去りぬ』なのよ」

私は驚いて、思わず聞き返した。

「あのアメリカの南北戦争を舞台にした恋愛映画ですか?」

  「そうなの。あの時は、警察に見つかればまた収容所に送り返されるとびくびくしながら出かけていったんだけれど、幸いにも警察に密告する人もなくて、無事に見て来れたの」

写真から見ると朴訥な感じのする山田氏がロマンチックな映画を見たがったと聞いて、私は突然山田氏に親近感を覚えた。

 ローズさんはそれから遠くを眺めるような目になって、「義父はそれから間もなく亡くなったから、日本が敗戦したことも知らないのよ。もっとも義父は、日本が勝っても負けてもどっちだっていい、早く戦争さえ終わってくれればと言っていたけれど」と言った。そしてため息をつきながら、

「義父はね、それでもラッキーなほうだったのよ。加藤常吉さんと言うクリーニング屋に勤めていた72歳の人は、強制送還されてしまったわ。常吉さんは独身で、オーストラリアには40年以上もいて、日本には知っている人一人もいなかったの。常吉さんが抑留される前に常吉さんを雇っていたクリーニング屋の中国人の経営者が、常吉さんの老後の面倒は見るから常吉さんをオーストラリアにいさせてほしいとオーストラリア政府に嘆願書も出したんだけれど、聞き入れられなくて、常吉さんは泣く泣く船に乗せられたわ。日本に帰って、すぐに亡くなったと言うことだけれど」

「お義父さんが釈放されたのは、奥さんがオーストラリア人だったからですか?」

「そう。アングロサクソンの奥さんや夫を持つ人とオーストラリア生まれの人は、オーストラリアに残ることを許されたの。だから、オーストラリア生まれの子供達をオーストラリアに残して、強制送還された日本人夫妻もいたということよ」

 ローズさんの話を聞いた後、私は、戦争中オーストラリアにいた日本人の苦難を思いやり、心が鉛のように重くなった。今オーストラリアに住んでいる日本人の私は、何年住んでもこの国では外国人だと思っている。だから、第二次世界大戦中にオーストラリアにいた日本人のおかれた状況は、他人事とは思えなかった。このまま日本とオーストラリアが今のような平和な関係をいつまでも続けてくれることを願わずにはいられなかった。

(参考文献:永田由利子著 Unwanted Aliens 豪州日系人強制収容 University of Queensland Press, 1996年)

著作権所有者:久保田満里子

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百済の王子(最終回)

病院から帰ると、物思いに沈んでいるセーラを見て、母親が心配顔で、

「どうだった?」と、聞いた。その時、本当のことを言うべきかどうか、迷った。しかし妊娠したことを母親にはかくしておけないと覚悟を決めて、

「私、妊娠3ヶ月だって」と、答えた。

「え?妊娠?それじゃあ、トムに連絡しなくっちゃいけないわね」と母親が言うので、セーラは慌ててしまった。

「ママ、実はね、おなかの子の父親はトムじゃないの」

「まあ、じゃあ、あんたトム以外につきあっていた男がいたの?」

母の声にはセーラを非難するとげが感じられた。

「ママ、実はね、日本に行った時、色々なことが起こったの」と、この時初めてセーラは母親に自分の身に起こったことを話した。

母は、「額田王?」、「百済?」、「 豊璋?」と、セーラが話している途中で、口をはさんだが、明らかに、事情が一度では、飲み込めない様子で、ぽかんとしていた。

そして最後に、「じゃあ、あなたのおなかの子の父親は、百済の王子だというわけね」と、一言言って、黙ってしまった。

母親も思わぬ事態に、セーラにどうアドバイスすべきか、言葉を失ってしまったのだ。

その晩の食卓は、重苦しい雰囲気に包まれていた。何も知らない父親だけが、

「何だ、今日は二人とも静かだな」と明るい声で言っただけだった。

翌朝、いかにも夕べは一睡もできなかったというような、疲れきった顔の母親が、

「セーラ、おなかの子は産みなさい」と、言った。

「夕べ考えたんだけれど、やはり子供はおろすべきではないわ。実はね、ママは赤ちゃんをおろしたことがあるのよ。あなたのパパと会う前に、妻子ある人と恋に陥った結果だったんだけれどね。その後、ママはどれほど苦しんだことか。だから、あなたには、そういう思いをさせたくないの。できるだけ、応援してあげるわよ」

セーラは母親のその言葉に励まされて、「産もう」と、その場で決心した。

産むと決めたあとは、子供の父親の 豊璋が、どうなったのか知りたくなって、インターネットで検索してみた。ウイキペディアで「扶余 豊璋」の項目を見つけたが、漢字が多くて意味が分からなかったので、母親に読んでもらって、 初めて、セーラと別れた後の豊璋の運命を知った。

それによると、結局は百済は滅亡してしまったようだ。そして 豊璋は、倭軍との連合軍が敗れた後は高句麗に逃亡。その高句麗も668年に唐のために滅亡。 豊璋は、高句麗の王族と共に、唐の都に連行されたということだ。しかし、高句麗王の宝蔵王らは許されて、唐の官職を授けられたが、 豊璋はゆるされず、嶺南地方に流刑にされたと、書かれていた。

ウイキペディアで 豊璋が流刑の地で死んだことを知って、セーラは胸が痛んだ。結局、 豊璋は、日本からは百済の王と認められたが、百済を治めることなく、死んでしまったのだ。

「結局、あの人は、百済を救うことができなかったのね。百済の人々は、そのあとどうなったのかしら…」

「これによるとね、百済の復興が失敗した後、何千人もの百済人が難民となって日本に渡ったと書いてあるわ」

セーラは、ため息をつきながら、

「きっと、その人達、過酷な人生を送ったんでしょうね。あの時代で楽をしているのは一部の人間で、ほとんどの人は、その日の食べ物にありつくために、あえいでいたから」

「そうでも、なかったようよ。天智天皇は、百済の難民に土地を与えて、一定の期間免税して保護したと言うことよ」

セーラは、容赦なく蘇我入鹿を切り捨て、異母兄に当たる古人皇子を討伐させた天智天皇の顔を思い浮かべながら、

「あの冷酷な人が、そんな温情のあることをしたの?」と、天智天皇の思わぬ面を見た気がした。

 豊璋の弟の禅広は、どうなったのだろうか?そう思ったら、母親から、

「 豊璋には弟がいたの?」と、聞いた。

「ええ、いたわ。禅広と言う人だったけれど、その人は確か百済には帰らなかったはずだわ」と言うと、

「ウイキペディアによるとね、彼の子孫は持統天皇から百済王(くだらのこにきし)の姓をもらって、百済の王統を伝えたって、書いてあるわ。お墓は大阪にあるようよ」

「そうだったの」

セーラは、自分のすこし膨らみかけたおなかをさすりながら、

「あなたのおじさんの子孫がまだ日本にいるみたいね。あなたが生まれたら、そのおじさんのお墓参りしましょうね。あなたには、日本人とオーストラリア人と韓国人の血が流れているわ。大きくなったら、日本とオーストラリアと韓国の絆を作れる人になってね」と、祈るような気持ちで、おなかの子に語りかけた。

 

2015年のオーストラリアに戻って6ヵ月後、セーラは、丸々とした男の子を産んだ。セーラはその子の顔を見て、なんて豊璋様に似ているのだろうと、いとおしさで胸がいぱいになり、しっかりその子を抱きしめた。

 

 

参考文献

宇治谷猛  「日本書記 下巻」創芸出版株式会社 1986年

宇治谷猛  「全現代語訳 日本書記 下」 講談社 2014年

高寛敏   「古代の朝鮮と日本(倭国)」雄山閣 2007年 

金達寿   「朝鮮」 岩波新書 1992年

兼川晋   「百済の王統と日本の古代」不知火書房 2012年

金栄来   「百済滅亡と古代日本」雄山閣 平成16年

鮮干輝、高柄翔、金達寿、森浩一、司馬遼太郎 

  「日韓 理解への道」中公文庫 中央公論社 昭和62年

田中史生  「倭国と渡来人 工作する「内」と「外」」吉川弘文館 2013年

中村修也  {偽りの大化改新}講談社現代新書 2006年

室谷克実  「日韓がタブーにする半島の歴史」 新潮社 2010年

福永武彦(訳者)「国民の文学 第一巻 古事記」河合出書房新社 昭和39年

 

 

インターネット検索

ウイキペディア 「朱雀」

        「白村江の戦い」

        「扶余豊璋」

        「百済王氏」

        「高松塚古墳」

                                    「大海人皇子」

           「額田王」

                                    「天智天皇」

                                    「皇極天皇」

                                       「孝徳天皇」

        「安曇比羅夫」

                                    「ソドンヨ」

                                    「百済王」

                                    「乙巳の変」

テレビ番組  韓国ドラマ「イ・サン」

       韓国ドラマ「大王四神記」

       韓国ドラマ「ケベック」

                                   韓国ドラマ 「朱蒙(チュモン)」

         NHK 歴史ヒストリア 「石の女帝」2014年10月15日放映

       NHK 知恵の泉 「敗者に学ぶ」2014年6月18日放映

 

 

 

 

 

 

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百済の王子(40)

第八章 その後のセーラ

 セーラは、あの飛鳥村の道を、月の明かりをたよりにテクテクと歩いた。7世紀の世界に迷い込んでしまった、あのタイムスリップした場所へと向かった。

そして、ついに、あの不思議な道に出たのだ。ともかく、歩いて歩いて、足が棒のようになって、一歩の足を踏み出すのもつらくなるまで歩いて、膝から崩れ落ちてしまった。そして、あたりを見回すと、何だか様子がおかしいことに気づいた。遠くに見える家々に明かりがついていたのだ。飛鳥の時代には、明かりをともすために使う漁油は高価なもので、豪族の家でしか、使えない。21世紀の時代に戻ったのではないかと、期待に胸を膨らませて、セーラは明かりの見える方向をめがけて、またゆっくりと足を引きずるようにして歩き始めた。21世紀の時代に戻りたい。ママとパパに会いたい。望郷の念が段々高まってきた。明かりの見えるところまで行かないうちに、突然道路に迷い出た。道路は舗装されていた。ついに私は21世紀に戻ったのだと思うと、セーラは涙がこぼれはじめた。が、突然、ブブーと車のホーンを鳴らす音が後ろから聞こえ驚いて後ろを見ると、車のヘッドライトが光っていて、まるで猛獣の目玉のようにすごいスピードで近づいているのが見えた。慌てて、道端に飛びのくと、その車はそのまま風を残して去ってしまった。ママとパパに連絡するためには、ともかく誰かと話さなければと、道の側の畑の向こう側に見える家に向かった。今は何時ごろなのだろうかと、セーラは思った。夜通し歩いて行き着いたところなのだから、もう朝なのだろうということくらいしか見当がつかなかった。

やっと明かりのついた家の前にたどり着くと、セーラは玄関の呼び鈴を鳴らした。鳴らしてしばらくして、「はーい、どなたですか?」と女の声がして、やっとドアが開けられ、40代の主婦らしい女がドアから顔を覗けた。その女は、セーラを見ると、驚いた顔をした。

「あなたは?」と聞いた。その女の声を耳の遠くに聞きながら、セーラは気を失ってしまった。今までの緊張感から急に解放されたためだろう。

次にセーラが目を覚ました時は、白い天井が見えた。しばらく、ここはどこだろうと考えていると、「気がつかれましたか?」と、可愛い女性の声がした。見ると、看護師だった。

「ここはどこですか?」

「奈良市立病院です。先生を呼んできますね」と、看護師が部屋を出て行こうとするのを呼び止めた。

「今年は何年ですか?」

看護師はそれを聞くとへんな顔をして答えた。

「2015年ですけど…」

それを聞くと、セーラは心安らかになった。浦島次郎のように、自分の生きていた時代をとっくに過ぎていたら、どうすればいいのか途方にくれてしまっただろう。2015年ならパパもママも生きている。そうだ、パパとママに連絡しなくっちゃと、セーラは一瞬のうちに考えた。

「パパに連絡してもらえませんか?」

「勿論です。今先生を呼んできますからね」と言って、看護師は急ぎ足で部屋を出て行った。するとものの5分もしないうちに、30代くらいの医者が看護師を従えて、部屋に入ってきた。

「気がついたようですね」と、医者から言われて、

「ええ」と言うと、

「あなたは一週間もこん睡状態に入っていたんですよ。今日が何月何日か分かりますか?」と聞かれ、セーラは首を横に振って、「分かりません」と答えると、医者の顔が曇った。

「今日は4月20日ですよ」と、言われ、自分がタイムスリップした時間は全く今の時間と加算されていないのに気がついた。あれは、夢だったのだろうかと、セーラの頭は混乱した。

「この病院に来たとき、何かのイベントにでも参加していたのですか?」と聞かれ、

「はあ?」と不思議な顔をしてセーラは医者を見たら、医者が

「まるで天女のような衣装を着ていましたからね」と、言うので、思わず笑いがこみあげてきた。セーラは自分が額田王にはじめてあった時も、額田王が仮装しているのだと思ったのだが、今度は自分がそう思われる番になったのかと、笑えてきたのだ。

「何か、おかしいことを言いましたか?」と医者が少し気分を害したようだったので、あわてて

「いいえ。ちょっと思い出したことがありましたので」と、言ったものの、なんと説明をすればいいのか、困ってしまった。そして、イベントに参加したと言うのが、一番皆の納得がいく説明だと気がついて、

「先生のおっしゃるとおり、イベントに参加して帰りに道に迷ってしまったんです」と、答えた。すると、医者も看護師も納得したような顔をして、

「そうですか」と言って、それ以上セーラを問い詰めなかった。

それから、オーストラリアの両親に連絡をとってもらい、両親がオーストラリアから飛んできた。

母親は病室のベッドで横たわっているセーラを見ると、黙って抱きしめた。そして、

「あなたがトムとのことで悲観して、自殺でもしたのかと思って心配していたのよ」と、セーラの耳元でささやいた。セーラはその時初めて、トムとの失恋で日本に来たことを思い出した。飛鳥にいたときトムのことをすっかり忘れてしまっていたので、久しぶりに聞くトムと言う名前もなんだか知らない人の名前のように思えた。

「ママ、トムとのことは、すっかり忘れたわ。安心して」と答えた。その後、「他に好きな人ができたから」と、心の中でつぶやいた。

セーラは飛鳥の時代の生活を誰にも話すことができなかった。話したところで、誰も信じないだろう。

両親から、

「なんで、あんな格好していたの?」とか「あんたの持ち物はどうしたの?」と聞かれても、持ち物は盗まれたとしかいいようがなかった。両親がクレジットカードをキャンセルしてくれたが、あのクレジットカードが使われることは決してないのだがと苦笑した。スーツケースは、ホテルにそのままあったので、衣服などはそのまま残っていた。一番大変だったのは、パスポートを紛失したので、オーストラリアの領事館に連絡して、再発行してもらうのに、また一週間待たなければいけなかったことだった。だからセーラが無事オーストラリアに戻ることができたのは、それから2週間後であった。父親は、仕事があるからと先に帰ってしまった。

母親と乗った飛行機がメルボルン空港に近づくと、セーラの目がうるんだ。懐かしいメルボルン。緑色の木々。蛇のようにくねった高速道路。整然と立っている家々。「やはり、自分の故郷が一番」と、思って空港の建物を出ると、咳き込んだ。飛鳥の空気と比べて、余りにも空気が汚れているのだと気づいた。

メルボルンに戻ってから、また以前の生活が戻ってきた。朝目覚ましで起きて、歯を磨いて、洗顔石鹸をつけて顔を洗う。今まで自動的にしていた行為が、新鮮なことに思えた。飛鳥では、体を洗う事だってめったになかった。なんて不潔な生活をしていたのかと、今になって思うが、あの世界では皆がそうだったから、当たり前のことだった。時折、フラッシュバックのように、豊璋のことが思い出され、豊璋にもう会えないのだと思うと、胸が締め付けられた。しかし、その回数が段々減ってきたある日、セーラは突然、何も食べられなくなった。食べ物のにおいをかぐだけで、吐きそうになるのだ。どうやら食あたりのようだが、すぐに治るだろうと思った。しかし、3日たっても同じ状態だった。4日目に医者に行って、思わぬことを言い渡された。

「おめでたですね。妊娠3ヶ月です」

セーラを取り巻く状況を知らない医者は、喜ばしそうにセーラに告げたが、セーラは信じられなかった。 豊璋と過ごした16年もの間、妊娠しなかったのに、今頃になって妊娠するなんて。一瞬頭が真っ白になった。その後頭に浮かんできたことは、 豊璋との子供を生むべきか、それとも堕胎すべきかと言う選択である。オーストラリアでシングルマザーとして生きるのは、日本に比べると楽だろう。シングルマザーに対する偏見は日本ほど強くないし、社会保障も行き届いている。しかし、それでも一人で子供を育てる自信が、セーラにはなかった。

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百済の王子(39)

豊璋が福信を殺したというニュースはたちまちのうちに新羅に伝わった。新羅は、今こそ、百済の復興軍を滅亡させるチャンスとばかり州柔に進軍しようとした。 豊璋は、福信を切った瞬間から、このことを予期していた。だから、味方の軍を集めて、新羅の攻撃を恐れないようにと、兵を励ました。

「倭国の救援隊の将軍、廬原君臣が兵を何万人も率いて海を越えて来ている。その軍はまもなく到着することだろう。だから安心するが良い。私は自らこの救援軍を迎えに白村に行くつもりである」

そう言うと、百済軍の兵士から、「百済万歳!」と歓声がわきあがった。

豊璋が白村に下りたのは、8月13日のことだった。その4日後、新羅軍が、豊璋のいなくなった王城を包囲した。

唐軍も水軍と食糧船、合計170隻を率いて、白村に向かった。唐軍の将の中に、 豊璋の異母兄で、 豊璋の代わりに太子として立てられていた扶余隆も加わっていた。 豊璋の異母兄が、百済が滅亡した後、唐の高宗の臣下となって、 豊璋と敵対することになったのは、運命の皮肉と言うよりほかはない。

白村で倭軍を迎えた豊璋は、これで唐、新羅連合軍に勝てる望みができたと、内心ほっとした。船の数だけでも倭軍は優勢だった。唐の軍は170艘なのに対して、倭軍は350艘もある。

すぐに豊璋は、倭軍と百済の将軍を集めて作戦会議を開いた。

「われらが先に攻めれば、敵は恐れをなしてにげていくだろう。敵軍に突っ込んで行くことにした。何しろ、船の数だけでも、我軍のほうが優勢だ」と豊璋が言うと、倭軍の武将、朴市田来津も豊璋の意見に賛同して、先手を打つことに決定した。

最初に倭国と唐の船の合戦がおこったのは、8月27日のことだった。

倭軍は守りを固めていた唐軍の陣に、船を進めて行った。何百と言う船が進むさまは、壮大であった。それに対して唐軍は、倭軍が自分達の陣に深く入ってきたのを見計らって、左右から火をつけた矢を射り始めた。船を挟み撃ちしたのである。左右から飛んでくる火の矢のために、炎上する船も出始め、慌てふためいた百済、倭連合軍は、「退却しろ!」との豊璋の命令で、船先を変えようとした。ところが、船を乗り入れたときには満潮だった白村江は、潮が引いたあと、川底が泥沼に化していて、へさきを変えようにも変えることができなくなった。そのため、倭軍は逃げ場をうしなってしまった。逃げ惑う者、川に飛び込み溺死する者、敵の剣の前に倒れるもの、矢に射られて倒れる者と続出した。船が燃えて煙が空高くみなぎり、海水は敗れた者の血で真っ赤にそまり、、地獄絵を見るような有様となった。豊璋の側に、白村江の潮の満ち干きに関する知識を持っている者がいなかったための、大きな誤算であった。

絶望的な状態になった中、突撃に賛同した倭軍の将、朴市田来津は、天を仰いで、「負けてなるものか!」と誓い、歯を食いしばって、来る敵、来る敵を切り倒して勇敢に戦っていった。しかし、数十人を倒したところで、力尽きて、倒れてしまった。朴市の倒れるのを見た豊璋は、もう勝ち目のないことを知り、「逃げよう」と、腹心の部下を三人連れて、まだ被害を受けていない船に飛び乗って、高句麗に逃げて行った。

3年も続いた百済復興軍の抵抗が、ついに終わりを遂げたのである。

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百済の王子(38)

 豊璋が百済に帰国したことに勇気付けられたのか、百済の復興軍は勢いをまして、百済王の宮殿のあった都城を奪還するために、都城を包囲した。都城を守っていた唐の将軍、劉仁願は、多勢に無勢になって、篭城をしいられるはめになり、すぐに唐の高宗に、このことを知らせた。高宗は、すぐに劉仁軌に兵をつけて援軍を送った。それと同時に新羅軍にも援軍を出すように、命じた。
その頃、福信は、熊津江口に二つの柵を設けさせて、劉仁軌の軍と新羅軍を都城に行かせまいと、防衛にあたった。しかし、今までとは違い、この時の劉仁軌の軍と新羅軍の連合は、結束が強く、福信の率いる軍は戦いに敗れ、撤退を余儀なくされた。福信の軍が退却した後は、百済軍の兵士の屍がいたるところにあり、福信はこの戦いで一万人もの兵士を失ってしまった。退却した福信の軍は、任存城に引き上げた。新羅の軍は、都城の安全を確保したのを確認して、ひきあげていった。一方唐軍のほうは、劉仁願と、劉仁軌が合流し、兵を休ませたため、一旦休戦となった。その間、唐軍は、自分達だけでは都城を守る自信がなく、新羅の援軍を再び要請した。
新羅王の金春秋は、将軍金欽に命じて唐軍の救援に向かわせたが古洒で福信に迎撃されて、敗れて、葛嶺道から逃げ帰って、再び出撃することはなかった。福信は金欽の軍を敗退させたあと、道チンと兵の指揮体制をどうするかで対立した。百済軍を指揮する者が二人もいると混乱を起こすから、これから自分が総指揮をとると福信が道チンに言い渡したのだ。道チンは、それに反発して、
「我らは王様の家臣として同じように戦っているもの。どうして私がお前の命令を受けなければいけないのだ。私は王様の命令にしか従わん」と、顔を真っ赤にして怒った。
「その王様は、私が日本からお呼びしたのだ。王様の信任を全面的に得ている私が軍の総指揮をとるのは当然のことであろう」と、言うと、道チンは
「さては、お前は百済をのっとるつもりなのだな」と、剣をふりかざそうとしたところを傍らにいた福信の部下に、ばっさり切られてしまった。道チンに従っていた兵士達は血相を変えて、福信に襲い掛かろうとした。福信は、
「お前達は、道チンの部下なのか?それとも百済王の臣下なのか?我らの戦いの目的は百済復興にあることを忘れるな。これから私の支配下に入るのが嫌な者はここから去っていけ。しかし、百済の復興を願うのなら、我の元で一緒に戦おうではないか」と、彼らを説得しに掛かった。道チンの部下達の顔に迷いが見られ、悪態をつきながら、軍を去っていく者もいたが、ほとんどの者は、福信に忠誠を誓った。彼らは、福信を信頼しているわけではなかったが、軍を去った後行くべきところがなかったのである。
 豊璋は、福信の言葉に反発して軍を去った道チンの部下から、道チンが福信に殺されたことを聞き、顔色を失った。どうして、福信は仲間の道チンを殺してしまったのだろうか?権力を一手に収めるためではないか?そうとしか、思えなかった。だからと言って、福信を今咎めたてれば、それは敵軍の思う壺となる。これ以上の内部分裂は避けるべきだと判断した 豊璋は、福信を責めるのはやめようと、噴き上がりそうになる怒りをいったんおさえた。しかし、福信に対する不信感が、この時初めて芽生えた。
道チンがいなくなった後戦況は変わってきて、 豊璋が到着した当初優勢だった百済軍が、どんどん負け始めた。
「唐軍によって、支羅城が陥落しました」
「大山柵が陥落しました」
「沙井柵が陥落しました」
と来る知らせ、来る知らせが全部敗戦の知らせだった。
百済軍は新羅の兵糧の通路をさえぎっていたのだが、新羅と仁軌が一緒になって、関所としていた百済の城を攻略して、新羅の兵糧が唐軍に運ばれるようになり、唐軍の勢いは盛りかえしていった。
劉仁軌の要請で唐の孫仁師の指揮する援軍が、仁軌の軍と合流したのも、百済軍にとって、痛手だった。
百済の陣営では、不穏な空気が流れていた。負け戦に続いて、どうも王様と福信将軍の仲がうまくいっていないようだといううわさが、兵士の間で流れ始めた。
 福信が、「国の政はすべて王様にゆだねます」と誓っていたのに、豊璋の許可も得ずに兵士を動かし始めたのだ。文句を言おうにも、最近は、福信は「病に陥りました」と言って、 豊璋のところに顔を見せなくなった。豊璋の心には、道チンの死によって芽生えた福信に対する不信感が、どんどん膨れ上がっていた。
「自分をないがしろにして、兵隊達に勝手に命令をだしている。病と偽って、我の顔も見に来ぬ。けしからん!」と、憤りを感じていた。そんなおりに、倭国に豊璋を迎えに来た佐平貴智が、 豊璋に驚くべきことを告げた。
「王様。どうやら福信は王様がお見舞いにいらしたときに、王様を待ち構えて、暗殺しようと、企んでいるようです」
 豊璋は、うすうす福信は謀反をたくらんでいるのではないかと心の中で思っていたので、すぐに福信を成敗しなければならぬと、決断した。
「福信を成敗しに行く!」と 豊璋は佐平貴智以下数名の腕の立つ信頼できる部下を連れて、福信が病に伏せているという周留城内にある窟室に向かった。
福信は、王が突然訪れるとは思ってもいなかったので、血相を変えた王が、剣を抜いた部下を連れて現れたときには驚いた。
「この者を引きずり出せ!」という 豊璋の命令で、福信は洞窟から引っ張り出され、掌をやりで打ち抜かれ、あいた穴に皮ひもが通されて、後ろでに縛られた。福信は苦痛で顔をゆがめ、うめき声をあげた。
自分の前にいる福信を、このまま殺してもいいものかどうか、 豊璋に迷いが生じた。それというのも、福信ほど武人として優秀な将軍は百済軍にはいない。彼を殺せば、敵軍を喜ばせるだけだ。しかし、このままほっておくと、敵にやられる前に、この男に自分が殺される。どうすればいいか。自分一人では、決めかねて、一緒に来た部下達の意見を聞いた。
「福信は王である私を暗殺しようとした。この者を斬るべきであろうか?」
 豊璋の問いかけに、すぐに達率徳執得が答えた。
「この謀反人を、許してはいけません」
これを聞いた福信は、憎憎しげに執得をにらむと、つばをはきかけ、
「この腐った犬のようにガンコな奴め」と、ののしった。
 豊璋はそれを見て、たとえここで福信を許したとしても、害にはなっても得るものはないと判断し、
「この者の首を切り、塩漬けにせよ」と、命じた。
死刑はすぐに実行された。福信の首が飛び、血吹雪が散った。これによって、 豊璋は右腕をなくしたことになる。後は頼りになるのは、外国からの援軍である。倭国にすぐに兵を送ってほしいと遣使を送り、高句麗にも助けを求めた。高句麗と百済は、もとをたどれば、建国者が兄弟だったということもあって、新羅に対してよりは、親密感があった。百済は、高句麗を開国した朱豪(チュモン)の妻のソソノ王妃の連れ子によって、建国された国である。豊璋は、敵が押し寄せる前に援軍が来るのを祈るような気持ちで待った。

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百済の王子(37)

   豊璋が百済に到着したのは662年5月のことだった。船が百済に近づくにしたがって、 豊璋の気持ちは高揚していった。船着場に近づくと、すでに連絡を受けていたのか、福信と福信の部下達の姿が見えた。岸に降り立つと、福信以下兵士達が皆土下座をして 豊璋を出迎えた。
「王様、よくぞ、戻ってきてくださいました。王様が戻られたとなれば、皆の心は一つとなって敵と戦うことができます」と、福信は感激の涙を流した。
 豊璋は、百済復興軍は、福信以外にも道探(どうちん)などがいたはずなのに、出迎え者の中に道深の姿は見えないのを不思議に思った。
「道ちんは、いないのか?」と 豊璋が聞くと、福信は顔をあげ、
「道ちんは、周留城にいて、警護に務めています」と、答えた。
福信は、安曇比羅夫の姿を、 豊璋の後ろに認めると、立って、安曇に近づき、言った。
「安曇殿、またお会いできて、うれしゅうございます。この度の援軍、まことにかたじけない」
「我が大君より、矢10万隻、糸五百斤、綿千斤、布千端、なめし革千張、籾三千石を送るように言われ、持ってきましたぞ」と安曇が言うと、福信は感激の余り、涙を流して、
「かたじけない」と言って、安曇の手を取って握り締めた。これまで物資の調達に困っていたのだろう、福信の部下達も、ひざまづいたまま、頭をたれて、涙した。
 豊璋は、それから、福信に伴われて、復興軍の拠点となっている周留城に向かった。
周留城に到着すると、道チンが出迎えてくれた。そして、すぐに家臣を集めて、王の即位式が行われた。
福信は、
「これより、国のまつりごとは、王様にゆだねます」と 豊璋に誓った。
ここで、 豊璋の支配する百済の首都をどこにするかについて、議論が起こった。それというのも、州柔は、倭国からの援軍をも食べさせるために、食糧不足に陥ったのだ。 豊璋と福信は、食糧難を解決するために、州柔から避城に都を移す必要があるということで、意見が一致した。作戦会議で、 豊璋達は、「州柔は、田畑から遠く、土地もやせているので、農業には適せず、食べ物が手に入りにくい地だ。だから戦闘が続けば、民達は飢え死にしてしまう。民の飢え死にを避けるためには、農耕のできる避城に首都を移す必要がある。避城は、水も豊富でかんがい施設も整っているので、農耕に適している。だから、食糧の豊富な避城に都を移す必要があると思う」と言った。それに対して、倭人の軍将たち狭井連、朴市田来津が反対の声をあげた。
朴市田来津は、
「避城と敵の間の距離は余りにも近く、一夜で行けます。もし、何かあれば、後で後悔してもしかたありません。そんなにたやすく攻撃されるところに都を移せば、飢える前に、われわれが滅ぼされましょう。今敵が襲ってこないのは、州柔は山が険しく、防備しやすいからです。山が高く、谷が水で溢れていれば、守り易く、敵も攻めにくいのです。もし避城に移れば、守ることが難しくなるでしょう」と、主張したが、長期戦を予測している 豊璋達は耳を貸さなかった。そして百済の軍は、避城に移動した。
移動がすむと、福信は、
「 豊璋様が百済王として即位され、倭国よりお戻りになった。今こそ、百済の国を復興するためにたちが上がるのだと、皆の者に触れて回れ!」と、伝令を各地に送った。
そのあと、西の地から、北の地から、福信と道チンの呼びかけに呼応して、志願兵がどんどん集まってきた。
勢いづいた福信は、
「今こそ、江東の地を取り返すときです」と 豊璋に進言して、集まった兵を連れて、熊津に向かった。熊津には、唐軍が千人駐屯しており、福信達の軍に応戦したが、大敗し、唐軍で生き残った者は一人もいなかった。 豊璋は、全勝の報告を受けて、心が躍った。
「福信、よくやった」
福信と組めば、百済を復興するのも夢ではないと、 豊璋は確信した。
しかしながら、負けた唐軍もそのまま引き下がらなかった。すぐに新羅に援軍を送るように要請したのだ。それを知った 豊璋は、
「新羅が襲ってくる!」と、周留城の守りを固くさせ、固唾を飲んで、新羅の攻撃を待った。しかし、実際に現れた敵を見ると、その数の少なさに、拍子抜けした。新羅は唐軍の要請を受けて援軍を送ろうとしたが、折り悪く、疫病が蔓延してその対応に追われていた。そのため、送った兵の数はたった500人だったのだ。
少人数の敵だと分かると、 豊璋達は、守るよりも攻めるほうを選び、周留城から兵を送り出して、新羅軍を蹴散らした。新羅軍は多くの戦死者を出して、退却した。
「百済の復興軍が、唐軍も新羅軍も蹴散らした」というニュースはたちまち百済全土に広がり、一旦降伏していた南部の城の者達が一斉に唐・新羅連合軍に反旗を翻した。
「王様、南の城もわが軍につきましたぞ」と、福信からの報告を聞くたび、 豊璋は、「でかした!」と叫び、福信に杯を渡し、酒をふるまった。
今のところ、 豊璋が戦場に出て行くことはないが、いずれは戦場にでなければいけないだろうと思うと、城の中で無為に過ごす気にはなれず、福信が兵士を連れて出陣した後は、臣下を相手に弓や剣の練習をした。生きるか死ぬかの状況にさらされている今、セーラのことを思い出すことはほとんどなくなった。ただ時折、月を眺めると、
「私の家族は今の月を見てはいないのです」と言ったセーラの悲しげな言葉が思い出された。セーラの行方がいまだに分からないところを見ると、もう自分のいた未来の世界に帰って行ったのかも知れない。もしそうだとしたら、月にさえも接点がないと言う事になる。月を眺めるとき、セーラとは何もつながりが無くなったのかと思うと、恋しさに、息苦しくなった。

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百済の王子(36)

  豊璋達の船は、瀬戸内海を通った後、日本海の荒波にもまれて、百済に向かった。百済の戦況がどうなっているか全く分からない。船の中で佐平貴智から、今までの戦況を聞いた。
「新羅は度々唐と組んで、百済を滅亡しようと、何度も唐に援軍の要請をしていたようです。最初この要請を無視していた唐の高宗が、ついに、唐の将軍、蘇定方に対して、水陸13万の兵を率いて百済を討伐するように命じ、新羅の太宗武烈王にもこれを支援するように命じたのです。」
「13万の兵!」
 豊璋は、その数だけでも、圧倒される思いだった。今一緒に百済に向かっている援軍は5千人である。
「その情報が入ってきたとき、義慈王様は、どうしたらよいかと臣下に問われたのですが、皆これと言って妙案も浮かばず、王様もどうされたらいいのか分からない状態が長く続いたのです。王様の行いをいましめたため、拷問されて獄死した成忠様は、唐と新羅の連合軍が攻めてくることを予見して、陸では白江の防衛を進言されていましたが、王様は、成忠様の助言を無視されました。また、古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同じような作戦を進言していましたが、王様はこれは興首が流罪にされた恨みから、王様を惑わすために言った作戦だと決め付けられ、興首の進言も無視されたのです。結局は、唐軍がその地を通過した後に迎撃すべきと、王様は決断されました。後で分かったことですが、王様が作戦会議を開いている間に、唐軍はその地をすでに越えて侵入していたのです。新羅の太子法敏は、徳物島で唐の将軍、蘇定方を出迎え、蘇定方から『7月10日に百済の南で新羅軍と合流して、義慈王様の居城、都城を討ちたい』と言われ、7月10日に合流することを約束したと言う情報を我軍が得ました。新羅の王、太宗は、新羅の有名な武将キムユーシンらに命じて精兵5万人を率いて唐軍に呼応させようとしているというので、我が軍のケベック将軍がその合流をはばむため、5千人の決死隊を率いて、戦闘に臨まれました。この決戦については、すでにお聞き及びのことと思いますが、5千対5万、最初から勝ち目がなかったのですが、ケベック将軍は3度も戦闘を繰り返し、防衛されました。しかし4度目の合戦ではついに力尽きて戦死されました。でも、ケベック将軍の決死隊の阻止で、新羅は唐と合流する予定日に遅れ、蘇定方は怒って、新羅の将軍を斬ろうとしたそうです。蘇定方の部下が、新羅の将軍を斬れば、新羅が離反するだろうと助言して、蘇定方を何とか思いとどまらせたと聞きました。
蘇定方は城山から海を渡って上陸する際に泥沼で手間取っていましたが、柳の筵(むしろ)を敷いて上陸し、熊津江口まできてしまいました。我が軍は、川に沿って陣を敷いて防衛にあたっていたので、唐軍は東岸よりあがって山上に陣を張り、結局は我が軍は大敗してしまいました。海を覆いつくす圧倒的な数の敵の大軍の前に我が軍は敗れて数千人が死にました。残りの我が軍の兵士は恐れをなして我先にと逃げ去ってしまいました。蘇定方の軍は潮に乗って、川に入ってくる船とともに、水陸両面から進撃してきました。都城から20里のところで我が軍は防戦しましたが、一万余人が殺されたり捕虜になり、敵軍が都城に迫ったので、王様と太子隆様は北境に逃げ去られました。城には王様の次子であられた泰様が残っておられ、王様の後をつがれましたが、7月12日には蘇定方によって都城が包囲されましたので、泰様は開城を余儀なくされ、降伏されました。それを聞いて、もはやこれまでと、7月18日に唐軍に義慈王様は投降され、百済は滅亡したのです。その後は、王様をはじめ、13人の王子様と大佐平沙宅千福様ら37名。あわせて50余名が唐の皇帝、高宗の前に引き立てられたそうでございます。王様の命も危ういと思われていましたが、意外にも唐の皇帝から恩勅を賜り、放免されたそうです。しかし王様は憤懣やるかたなく、心労で倒れられ病死されました。高宗は、王様の臣下に葬列に参加することを認められ、呉の最後の皇帝であった孫日告と、陳の王であった陳叔宝の墓の側に王様を葬り、碑を建てて、礼遇を尽くしたそうです。そのあとは、唐が百済をことごとく平定し、百済は6州に分けられ、百済の王族は東都に献ぜられたそうです」
佐平貴智の話を聞き終わると、 豊璋は、自分を待ち受けている状況が厳しいことを知った。一つ心を慰められたのは、父が屈辱的な死に方をしたわけではないことだけだった。自分の一族は、唐の皇帝に手なづけられてしまっているようだ。
「残念ながら、百済の重臣でありながら、新羅に寝返って、官位を授けられ、栄華を極めているものもおりますが、鬼室福信様のように、義兵を募って、抵抗を続けている者も大勢います。達率だった黒歯常之様は、唐軍の捕虜となりましたが、唐軍の暴虐を見るに見かねて、任存城に逃げて義兵を募ったところ、3万人も集まったそうでございます。これにはさすがの蘇定方の軍は手も出せず、退却したので、勢いついた復興軍は、200もの城の奪還に成功したのです。しかし、この勢いは長くは続きませんでした。高宗が新たに王文度を派遣して、援軍を送ったため、10月には一旦取り戻した城も取り返され、黒歯常之様は1500名の義兵と共に斬首されたということです。今も残って抵抗を続けているのは、佐平鬼室福信様と、僧侶どうちん様でございます。みなが心を一つにして戦うためには、 豊璋様を王としてお迎えしようということになってのです」
  日本に来るときは、航海している間中船酔いに悩まされたが、血なまぐさい話を聞いていると、船酔いもしなかった。

参考文献 全栄来 「百済滅亡と古代日本」雄山閣

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百済の王子(35)

百済の王子(35)

661年9月、豊璋と多臣蒋敷(おおのおみこもしき)の妹の結婚式が、天皇も参列されて、おごそかに行われた。新妻は、まだ15歳の幼い感じのかわいらしい女であった。婚礼に参加した人々は、「なんと愛らしいお方じゃ」と、新婦を絶賛する声があちらこちらからもれ聞こえたが、豊璋の顔には、妻を娶る男の喜びは見られなかった。皆は百済の国の存亡が彼の肩に掛かっているのだから、豊璋の顔が暗いのも当たり前だと受け止めたが、豊璋の心の中には、セーラが完全に自分の前から消えてしまったことの悲しみで満ちていた。
 婚礼の後はすぐに、豊璋が王として、新妻が王妃として、かしこまって冊立を受けた。
「我もあとで、援軍を率いて、百済に参るから、心配は無用じゃ」と斉明天皇に言われ、心強く思われた。
  豊璋はすぐに屋敷に戻ると、戦場に行くための準備をし始めた。倭国にいる間、武術の鍛錬は怠っていた。人質の身だったので、へたに鍛錬して、倭国に疑惑をもたれるのが嫌だったからである。だから、多少の不安は感じた。こんなとき、セーラがいたら、どんなに慰められただろうと思うと、心の中にぽっかり空いた空洞は、簡単には埋められないものだと思われた。しかし、セーラのことだ。戦争なんて馬鹿馬鹿しいからするなととめただろうなと思うと、思わず苦笑いした。留められても行かなければならない。結局セーラとは言い争うことになりそうだと思うと、これで良かったのかもしれないと自分を慰めた。新妻と連れ立って、 豊璋が屋敷を出たのは、百済王と冊立されて、一ヵ月後のことだった。新妻はおとなしい女で、豊璋が話しかけない限り、自分から物を言うことがなかった。自分の意見をすぐに言うセーラとは大違いで、豊璋にとっては、少し物足りない女であった。豊璋とは20歳近くも年が違うので、妻のおさなさが気になるのは仕方のないことだった。
662年5月 豊璋が、出発先の難波の港に行くと、170艘の船が港につながれており、壮観な眺めだった。集まった兵士も1万余人と言うことだった。大勢集まった兵の中に、 豊璋が来日した当初、宿泊先を提供してくれた大将軍安曇比羅夫の姿を認めたとき、思わず微笑が浮かんだ。第一陣の指揮者として安曇が一緒に行くと伝えられたとき、百済にも住んだことのある安曇なら頼りになると、心強く思った。
「安曇殿、この度は、百済への援軍、よろしくお願い申す」と声をかけると、
「 豊璋様と一緒に戦える日が来るなどとは、夢にも思いませなんだ。決死の覚悟で戦いに臨む所存でございます」と、かしこまって言った。
「安曇殿にそう言ってもらえると、頼もしい」
「決死といえば、ケベック将軍は決死隊を連れて、新羅と唐の合流を阻めたと聞きましたが、惜しい将軍をなくされました。ケベック将軍には百済にいたときには、随分世話になりましたが、彼ほどの豪快な将軍はめったにいないと思いました」
 豊璋もケベックの最後については、うわさは聞いていた。決死隊5000人を連れて出陣する前、家に帰る未練を残してはいけないからと、自分の妻子を殺したと言う事だった。
ケベックの余り笑いもせず生真面目だった姿を思い出しながら、 豊璋は、
「我も惜しい将軍をなくしてしまったものだと思う」と、感慨深げに答えた。
難波の港で、天皇、皇太子を始め、大海人皇子、乙巳の変の立役者、中臣鎌足、義兄にあたる多臣蒋敷(おおのおみこもしき)、それに倭国の朝廷の主だった人の顔が見られた。
 豊璋は、多臣蒋敷(おおのおみこもしき)に、「妻の世話、くれぐれも頼む」と言い残して、不安そうな顔で見送る妻に、「必ず戻ってきて、そなたを百済の王妃にしてみせる」と言って、船に乗った。自分が王になれる確率は、半々。新羅だけとの戦いならまだしも、唐との連合軍となると、自信はなかった。ただ斉明天皇が、船350艘を造って送ると約束してくれたので、少しは勝ち目がありそうにも思えた。しかし、船を突貫工事で造っている駿河の国で、へんなうわさが流れているのを知る由もなかった。そのうわさというのは、船が竣工した後、ある夜、理由もなく、船尾とへさきが入れ替わっていたというのだ。これを見た人達が、「これは我軍が負ける前ぶれではないか」と言い始めた。そんなうわさが流れると、それに同調するような者も出てきて、「ハエが群をなして西のほうに向かっていって、大阪を乗り越えたのを見た。その大きさと言ったら、天にも届いた。これは救援軍が敗れる前兆に違いない」と、言い始め、民間人は、この戦いは負けるだろうと、悲観的だった。

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百済の王子(34)

 セーラは、「豊璋が妻を持てば、自分の居場所がなくなってしまう。それに豊璋が百済に帰ったら私は一人になってしまう」と思うと、いても立ってもいられなくなった。 豊璋の煮え切らない態度にも失望させられた。 豊璋に会ってから、一度も21世紀に戻りたいとは思ったことがなかったのに、今日初めて、21世紀に戻れるものなら、戻りたいと思った。

豊璋が百済に帰って、そばにいなくなる人生をこの右も左もわからない土地で一人暮らすことを考えると耐えがたく、いてもたってもいられなくなった。「どうしよう、どうしよう」と、まるでおりの中の熊のように、部屋の中をぐるぐる回りながら、セーラは考えに考えた。そして考えたあげく、一つの結論に達した。あの道に迷った場所に行ってみようと思い立ったのだ。

もし21世紀に戻れるなら、あの場所しかない。そう決心すると、すぐに旅支度をして、豊璋に手紙をしたためた。書く手が何度も止まった。豊璋と過ごした楽しい思い出がドッとのセーラの脳裏に押し寄せた。そのたびに涙がぽたりと紙の上に落ちるので、慌てて目をぬぐったが、すぐにまた新たに涙があふれ出て、セーラを困らせた。

夜遅くなって人目が無くなるのを待って、セーラは、そっと屋敷を出た。月夜の明るい晩で、明かりをつけなくても、歩けそうだった。音を立てないように門をそっと開け、外に出ると、草むらの中に一本の細いあぜ道が月明かりに照らされてどこまでも続いているのが見えた。セーラは、どんどん南に向かって道を歩いた。

一度だけ、 豊璋の屋敷を振り返った。静寂に包まれた屋敷が、遠くに見えた。心の中で「さようなら、 豊璋様」と言うと、また 豊璋の屋敷に背を向けて、ひたすら歩いた。涙がぽたぽた落ちたが、セーラは涙をぬぐおうともしなかった。

翌朝、 豊璋は目が覚めると、夕べのセーラとの諍いを思い出した。 豊璋にはセーラがどうしてそんなに腹を立てるのか、いまだに理解できなかったが、後味は悪かった。自分が謝る必要はないと思うのだが、わだかまりを何とかなくしたい。そう思って、セーラの部屋を訪れた。

セーラの部屋の前で、「セーラ、おるか?」と 豊璋は声をかけたが、返事がない。思い切って、戸をあけて部屋をのぞくと、セーラはいなかった。ふとんも片付けられていて、部屋の真ん中に手紙があるのが目に入った。何だか不吉な予感がして、すぐに手紙を手にとった。手紙を読んでいくうちに、 豊璋の顔色が変わった。

すぐに「誰かおらぬか!」と大声で下男をよびつけると、
「セーラが屋敷を出て行ったようだ。探せ!」と、命じた。
下男たちが、 豊璋の命令で、近所を探し回ったが、セーラの姿は、どこにも見えなかった。

その晩、 豊璋は、セーラが戻ってくるのではないかと、門の前に一晩中火をともして置くようにと、家来に命じた。しかし、翌日になっても、セーラは戻ってこなかった。 豊璋は初めてセーラを失った哀しみに襲われた。

いつも側にいるのが当たり前だと思っていたので、心に大きな穴があいて、そこに寒風が吹き付けるような痛みを感じた。

 

著作権所有者: 久保田満里子

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