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知美の闘病記(2)

 いよいよ手術の日。知美は、手術の前夜は不安で眠られないのではないかと思っていたが、疲れていたのかぐっすり眠ったのには、自分でも驚いた。朝7時半に朝子が迎えに来てくれ、朝子の車で病院に着いたのは朝8時だった。入院の手続きを済ませると、朝子はまた夕方見舞いに来るからと言って帰って行った。一人残された知美は緊張感で身がしまった。待合室に入ると、すぐに着替えるようにと、ガウンとパンツを手渡された。脱いだ服はロッカーに入れるように言われたので、入院するために持ってきた荷物と一緒にロッカーに入れた。ガウンは白くてひもがいくつかついて結ぶようになっていたが、ひものある方が後ろか、それとも前か、迷ったあげく、ひもがある方を後ろにきた。

  手術前の待合室は患者で溢れていたが、雑誌を読んでいる人、人と話している人など、どの人も大して不安がっている様子もない。手術は初めての知美は、他の患者の落ち着き払った顔に驚きを覚えた。おどおどしているのは自分だけだ。この時ばかりは知美は自分は本当に臆病者だとつくづく思った。10分くらい待ったところで、薬剤師に小部屋に連れていかれた。そして服用している薬の有無を聞かれ、アレルギーはないか聞かれた。「アレルギーは、ありません」と答えた後、絆創膏をつけてかぶれたことを思い出し、慌てて「そういえば、絆創膏にかぶれます」と答えた。そのあと、足にきつくて一人では履けそうもないソックスをはかせられた。足に血栓ができるのを予防するためだそうだ。ロッカーのカギを渡すと、薬剤師は知美の名前の書いてあるファイルに入れた。

 いよいよ手術の時間も迫ったころ、ベッドに寝かされ、両足にマッサージ器がとりつけられた。これも足に血栓ができないようにするための処置なのだそうだ。マッサージ器が動き始めると両足がゆっくりと絞られる感じ。痛いような痛くないような微妙な感覚だった。

「雑誌、読む?」と言われ「はい」と答えると、女性週刊誌が手渡された。そういえばメガネは服を着替えるとき、ロッカーに一緒にしまったことを思い出した。活字は読めないが、写真だけは見えるので、写真だけを見ていると、「ハーイ」と元気のよい声がして、若い女性が現れた。「私、麻酔医のマージよ。よろしくね」と言う。

「手術中、あなたをモニターしているから安心してね。あなた金歯はある?」

「いいえ」

「じゃあ、よかったわ。口から管を入れるからね、金歯だと傷つける恐れがあるのよ」

 知美は入院するのが初めてだったので、それまで麻酔が歯に影響を及ぼすなんて知らなかった。麻酔さえかけてもらえば、手術は知らぬ間に終わってしまうと気楽に考えていただけだった。

 手術室にガラガラ移動用ベッドが引っ張られて、連れていかれた手術室では、緑色のキャップをし緑色の外科医用のエプロンをかけた外科医が待っていた。

「今日手術をするのは右だったっけ?左だったっけ?」と知美は聞かれ、間違ってしこりのないほうを手術されたら大変だと思い、あわてて「右です」と答えた。外科医が、放射線測定器を知美の乳房に近づけると、測定器は「ガーガー」となり始めた。すると、外科医は満足そうにうなづき、「これでリンパ腺がどこを通っているか分かるわ。癌が転移していないかわきの下のリンパ腺の細胞を少し切り取りますからね」と言った。「お願いします」と言うと、傍らにいた麻酔医が腕に注射した。すると、すぐに知美の意識はなくなっていった。

 

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知美の闘病記(1)

「乳がんでした」と言う医者の言葉が電話口から聞こえた時、知美はガーンと頭を金づちで殴られたような気分におちいった。乳房にマスカットの粒大のしこりを見つけたのは半年も前のことである。すぐにエコー検査をし、マモグラムの検査もした結果、「何かにぶつかって、衝撃を受けてできたこぶのような物でしょう」と説明されたが、別に物にぶつかったような記憶はなかった。そのしこりは3か月たっても小さくなるどころか段々大きくなるばかり。不安を感じて、メルボルン一と定評のある外科医を紹介してもらった。その外科医との予約は3か月先になると言われたが、仕方ないので3か月待った。

「3か月も待たなければいけないのよ」と、皮膚がんになった経験のある友達にこぼすと、「僕なんか半年待たされたよ。名医ともなれば、皆見てもらいたがるからね。待たされるんだよ」

 そう言われてみれば、その外科医は最近有名な歌手を治療して評判になっていたので、納得せざるをなかった。3か月たって、やっとその外科医に会うと、すぐに細胞検査をするようにと言われた。その検査の結果を知らされたのだ。だから、癌と判明するのに半年もかかったと言うわけだ。

「そうですか。それでは今からそちらに行きます」という知美には、母親が胃がんの痛みでのたうち回って苦しんだ姿が目に浮かんできた。母親は38歳で死んでいる。知美も、あの母親と同じように激痛の苦しみを味わなければいけないのかと思うと、気が滅入った。

 不安な気持ちで、医者の前に座ると、ふくよかなどこにでもいるようなおばさんと言った感じの外科医は淡々とした優しい声で、知美に検査の報告書を見せながら、検査結果を説明してくれた。

「あなたの癌はまだ4ミリくらいの小さなものだから、転移しているとは思えません。もちろんはっきりしたことは、癌を取り除く手術の時に、リンパ線の一部を切り取って、精密検査をしなければ分かりません。もし転移していないと仮定すると、あなたの治療法は、手術、放射線治療、そしてホルモン治療となります」

「あのう、私、死ぬのはこわくないのですが、痛い治療はごめんこうむりたいのですが」と知美がおそるおそる言うと、医者はにっこり笑って、

「抗がん剤を使ったキモセラピーは、髪の毛も抜けるし吐き気がしたり気分が悪くなるという副作用がありますが、あなたにはキモセラピーは必要ないでしょう。もっとも精密検査の結果が出るまで断言できませんが。放射線治療の副作用は、日焼けをすることと、疲労感に襲われることくらいです。キモセラピーのように気分が悪くなるということはありません。それに治療しているときも、痛くもかゆくもありませんよ。ホルモン治療は、薬を飲むだけですからね。痛くないから大丈夫」と太鼓判を押してくれた。医者のその微笑を見て、知美の不安はけしとんだ。

 手術は早いほうが良いと言うので、手術の日は4日後になった。手術後入院するのは一泊だけと言われ、長い闘病生活を考えて気が滅入っていた知美の心を少し軽くした。独身の知美は、退院した後のことが心配になり、近所に住む独身の友達、朝子に連絡した。普段は気が強いと思われている知美も、この時ばかりは心細くなっていた。

 知美が入院のことを話すと、「まあ、大丈夫なの?」と朝子は驚き、すぐに飛んできてくれ、病院への送り迎えを頼むと、快く引き受けてくれた。

 翌日知美のもとに乳がん患者を支援する会から小包が届いた。開けてみると癌治療の説明書、リハビリのための運動のDVD,手術後用のブラジャー、記録をとるための闘病日誌などが入っていた。乳がんに対する寄付活動は盛んなのは知っていたが、こんなにも支援があるのかと、びっくり。そのあと看護師から電話がかかり、これからの治療について詳しく説明された。医者から、どこにリンパ腺が通っているか知るために、手術の前日に放射線物質をリンパ腺に注入するように言われていたが、その看護師から、「その注射、痛いので覚悟しておいてね」とくぎをさされて、知美はまたまた恐怖に陥った。

「あのう、痛み止めをあらかじめ飲んでおいてもいいでしょうか?」とおそるおそる聞くと「それは、かまいませんよ」と言われ、早速薬局に行って、強力な痛み止めを買って、備えた。その時、入院の手引きに書いてあったように、病院に持っていくために薬局でいつも買う薬のリストをプリントしてもらった。知美は、高血圧とコレステロールの薬を飲んだいた。知美も60歳になったとき、医者からすすめられて、この5年間飲み続けている。

 知美は手術の前日、病院の放射線科の小さな部屋に通されて、仰向けに寝かされた。医者は、「悪いけれど、右手は背中に回して」と言う。「どうしてですか?」と言う知美に、医者は本気とも冗談ともとれるような口調で「だって、痛いからって殴られたら、たまらないもの」と言う。

 知美は、『ええっ、そんなに痛いものなの?』と不安の波が押し寄せ身を固くした。いよいよ注射の針が皮膚を突き刺し、放射性物質が、乳房全体に広がっていくのが感じられたが、思ったより痛くなかった。麻酔薬を打たれるときのちくっとした感覚が長引いたという感じだった。痛め止めが効いていたせいかもしれない。

 家に帰った後、明日は手術だと思うと、知美は鏡に映った自分の乳房を見て、この乳房とお別れだと言う感慨に襲われた。いつだったかオーストラリア人の女医さんから「まあ、小さな乳房ね」と言われたが、それでも、いとおしく感じられた。だから、もう二度と同じ形が見られない乳房を記念として携帯で写真に撮った。少しセンチメンタルな気持ちにおちいっていた。

著作権所有者:久保田満里子

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呉キッド(最終回)

退役軍人の省からの返事はすぐに来て私達を驚かせた。しかしそのメッセージは、個人情報保持のため、連絡先は教えられませんと言う、味もそっけもない返事だった。しかしその後、彼の娘がわざわざ日本から来ているというのなら、彼にそのことを知らせて、彼のほうから連絡するように言うと書き足されていた。

「これでは、いつ連絡があるかどうか、分からないわね。でも、この文面から、お父さんは生きているのは確かね。でも、90歳近いのなら、認知症にかかっているとか、歩けないとか、色々体の支障をきたしていることも覚悟しておかなくてはいけないわね」

雅子は「生きていることがわかっただけでもうれしいです」と言った。

その日から、私達は彼からの連絡を毎日待ちわびた。その間私は雅子を色々な観光名所に連れて行ったが、どんな知らせが待ち受けているのかと思うと、外出しても、雅子も私も気もそぞろであった。

一週間後のことだった。午後からフィリップ島に行こうと、朝のんびりしている時に、待ちわびた電話がかかってきた。

「雅子に話したいんですけど」と言う声は、オーストラリア人の熟年女の声だった。

電話に出た私は、逸る気持ちを抑えながら言った。

「私は雅子の友達です。雅子は英語が話せないので、私がメッセージをお聞きします」

「私はアーサー・マッケンジーの娘のナタリーです。父に会いたいということですが、父は認知症にかかり、老人ホームに入っています。でも、わざわざ日本から父に会いに来られたのなら、父に会ってやってください。老人ホームの住所は‥」

私は素早く住所をメモに書き留めると、「ありがとう」と言って電話を切った。電話を切ったあとになって、「あっ」と思った。

「ごめんなさい。今の人、あなたの妹になる人だったのね。話したかったんじゃない?」

「いえ、いいです。だって、私は英語が分からないもの。ともかく父に会えるなんて嬉しいです」

私達は、早速もらった住所を頼りに、老人ホームに向かった。

老人ホームには暗いイメージがつきまとうものだが、アーサーの入っている老人ホームは明るい廊下もピッカピカに磨かれた、明るい雰囲気の所だった。受付の訪問者ノートに名前を書き込み、アーサーの部屋を教えてもらった。

部屋は、開けっ放しになっていて、部屋のベッドには、やせほそった老人が横たわっていた。

ベッドのそばに立った私達を不思議そうな顔で見上げる老人は、まつ毛が長く目が大きいところは雅子に似ていた。雅子は思わず老人の骨ばった手を握った。

「あんたは、誰だ」という老人の言葉を聞いて、雅子はハンドバックから両親の結婚式の写真を取り出して渡した。

その写真をしばらくじっと眺めていた老人の目から急に涙が流れ落ちた。そして、「澄子」と、いとおしそうにつぶやいた。

まさかアーサーが雅子の母親のことを覚えているとは思わなかった私は、驚いて雅子を見た。雅子の目からも涙がこぼれた。アーサーの言葉は、雅子の母を本当に愛していたのだと言う証のように思え、私も思わずもらい泣きをしてしまった。

雅子はそのあと、「私は澄子とあなたの娘です」と言ったが、雅子の言葉はアーサーの耳には入っていないようだった。アーサーはじっと写真を眺めたまま身動きしなかった。

結局、アーサーは雅子を自分の娘だと分からないまま、老人ホームの訪問は終わってしまった。

無言のまま車に乗った雅子を、私はどう慰めたらいいのか分からず、陳腐なことしか言えなかった。

「お父さん、結局、あなたを自分の子供だと分からなかったみたいで、残念だったわね」

雅子は、私の言葉に気を取り直したように、

「父は母を覚えてくれていただけでも、嬉しいです」と言った。

その晩、またナタリーから電話がかかってきた。

「雅子に伝えて。父は、チェリー・パーカ注ーがオーストラリアに入国を認められてから、澄子という人のことを探しに呉に戻ったそうです。でも、澄子の行方が分からず、傷心のままオーストラリアに戻ってきたそうです。私の母は、父とは幼なじみだったので、父を慰めているうちに二人の仲が接近して、結婚したということです」

雅子にあとで、ナタリーの言葉を伝えると、雅子は言った。

「オーストラリアが母の入国を拒まなかったら、父と離れ離れにならなくて済んだのに。時代が悪かったのね」

その言葉を聞いて、終戦直後に私が夫と会っていたのなら、私達も引き離されていたのだと思うと、この平和になった世界に感謝せずにはいられなかった。

 

注チェリー・パーカーこと桜元信子は、夫ゴードンの4年がかりの請願運動のおかげで、初めて日本人の戦争花嫁としてオーストラリアに入国を許された女性。二人の子供も入国を許されたが、当初は5年のビザしかもらえなかった。

 

参考文献

Walter Hamilton “Children of the Occupation”

インターネットサイト

Australian White pages

Japanese wives of Australian serviceman

 

 

 

 

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呉キッド(2)

時々メルボルン空港では預けた荷物がなかなか出てこなくて、1時間待たされることはざらなので、ため息をつきながらも、税関からのドアが開くのを見ていた。すると、後ろで肩を叩く人がいた。振り向くと、熟年の女が笑いながら立っていた。よく顔を見ると、シワがあるものの、大きな目に長いまつげで丸顔なのは、まさしく雅子の顔である。昔のウエーブのかかった茶色の髪は、多少薄くなっていた。雅子をどうして見逃したか考えてみると、彼女の体型がまったく変わっていたからだ。スリムだったウエストには、たっぷりの贅肉がついていて、完全におばさん体型である。もっとも私もウエストに贅肉がつき、若い頃から比べると10キロばかり太ったので、他人のことは言えないが、それにしても、雅子の変貌ぶりは、すさまじかった。

それでも、私は一気に大学生に戻った気分になり、

「雅子さん、よく来てくれたわねえ」と、ハグしたら、雅子は少し戸惑ったようだ。そして、改まったようにお辞儀をしながら、

「いつこさん、お世話になります」と、言った。

日本人の私が外人ぽくなったのと比べて、外見は外人の雅子は、日本人らしい、挨拶をしたので、私は思わず笑った。

「今日は、疲れたでしょ?明日からお父さんの行方を探すことにしましょうね」と言うと、「よろしくお願いします」と言う雅子の目が少しうるんだように思えた。

その日は、どういうふうにお父さんを探したらよいか、二人で作戦をねった。

「お父さんの名前は、分かっているのよね」

「ええ、アーサー・マッケンジーって言うそうです」

「マッケンジーって、よくある名前だから、探すの、ちょっとむずかしいわね。その他、お父さんについて知っていること、全部教えて」

「実は、おじから両親の結婚式の写真を、母に内緒でもらったのがあるんです」と、雅子は一枚のセビア色の写真を取り出した。そこには軍服姿の背の高い白人の男と、小柄な着物姿の愛らしい感じの日本人の女性の姿が写っていた。二人の密かな結婚式の写真のようだ。この写真が、すでに年老いた雅子の父親を探す手がかりになるとは思えなかった。

「他に知っていることはない?例えば歳はいくつだったの?出身地は?」

「歳は、20代の前半だったと思います。メルボルン出身だと、おじから聞きました」

65年前20代前半ということは、すでに90歳近いということになる。雅子には言えないが、生きている可能性がうすい。それでも、なんとか雅子の希望を叶えたいと、私はない知恵を絞った。

「もう90歳近いのなら、インターネットを使っているとは思えないから、インターネットで探しても無駄かもね。でも、一応、インターネットで検索してみましょうか」

私は、早速インターネットで検索をしたら、なんと7億以上の該当サイトが見つかり、お手上げであった。。最初の10サイトを見ただけでも、フットボール選手、作家、不動産屋とありとあらゆる職種の人が掲載されていた。

「一番有名なアーサー・マッケンジーって、フットボール選手がいるけど、この人第一次世界大戦で死んだと書いてあるから、この人でないことは、確かね」と、私はため息をつきながら言った。

雅子は、「電話帳を調べたら、どうかしら?」と言い出した。確かに90歳近い人でも電話はもっているだろう。ただし番号を隠している人も多いので、確実とは思えない。しかし、調べてみる価値はある。

早速インターネットで、電話のホワイトページで、a.mackenzieの項目を調べると、メルボルンには35名の該当者がいた。

「35人なら、一人ひとりに電話しても、そんなに時間はかからないわね。どうする?」

「でも、私、英語ができないから、皆いつこさんに電話してもらわなければいけなくなりますね。ちょっと申し訳ないです」

「だったら、他にどんな方法が考えられる?」

「日本では、新聞広告を出しますけど、こちらではそんなことしないんですか?」

「う~ん。あんまりしないわね。それに日本人ほど新聞を読む人は多くないから、無駄だと思うわ」

そして、考えているうちに、あるアイディアが浮かんだ。

「そうだ。こちらにDepartment of Veterans’ Affairsというのがあるから、雅子さんのお父さんは軍籍があるわけだから、そこできいてみたらいいかもしれない」

「それって、なんですか?」

「退役した軍人のお世話をする役所よ」よ、雅子の質問に答えながらも、手ではコンピューターで検索を始めた。検索後、そのサイトのメールアドレスに、依頼のメッセージを書き込むことにした。

「呉の進駐軍に配属されて、1950年に、強制送還されたArthur MacKenzieに連絡がとりたいのですが、連絡先を教えていただけませんか?彼が日本にいる時、日本女性との間にできた娘が、連絡を取りたいとメルボルンに来ています。よろしくお願いします」

メッセージを打った後、これで連絡先を教えてもらえればめでたしめでたしということになるのだがと思いながらも、「もう彼は死にました」と言う返事がくるのではないかと、私は半分期待、半分恐れといった奇妙な気分に襲われた。雅子も同じ気持ちだったに違いない。

(続く)

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呉キッド(1)

私に初めて呉キッドについて教えてくれたのは、高校時代の友人、中川美香だった。

美香から次のようなメールをもらったのが、きっかけだった。

「いつこさん

私が大学時代寮で部屋をシェアしていた香坂雅子さんのことを覚えていますか?

実は彼女が最近になって、父親を探しにオーストラリアに行きたいと言っているのですが、オーストラリアに着いたら、彼女の手助けをしてあげてくれませんか?あなたも知っているように、彼女、外見は外人なのに、全く英語が話せないので、あなたが面倒を見てあげてくれると助かります。                 美香」

私は、香坂雅子のことは、よく覚えていた。色が白く、髪はウエーブかかった茶色で、まつげが長くて目が大きく、まるでフランス人形のような子だった。きっと父親か母親は外人なのだろうと思ったが、余りそんなことを詮索すべきではないように感じて、彼女の親について聞いたことはなかった。美香のルームメイトとして、挨拶くらいは交わしても、個人的に話をしたことはなかった。ただ彼女の外見からして英文科の学生で、英語はペラペラなんだろうと思ったら、国文科の学生で、英語はてんでダメだと聞いて、なんだかおかしかったのを覚えている。

美香の最初のメールは簡潔すぎて、よく事情が分からないので、もっと具体的にどんなことを私にして欲しいのかを知らせてほしいと言ったら、美香から長い返事が来た。

「イツコさん

呉キッドって聞いたことがありますか?戦後進駐軍としてオーストラリアの兵士が呉に配置されたのですが、その兵士たちと、日本人女性の落とし子は呉キッドとオーストラリアでは呼ばれていたと聞きましたが知っていましたか。私は最初この言葉を聞いた時は何のことか分かりませんでしたが、キッドって子供って言う意味なんですってね。呉には百三十五人ぐらいそんな子がいたそうですが、父親とは連絡を絶たれ、母親だけに育てられるか母親にも見捨てられ孤児院に預けられたり、アメリカに養子に出された子が多かったそうです。実は雅子は呉キッドだったんです。あなたは広島市出身だから呉市のことは余り知らないかもしれないけれど、日本で育った呉キッドは、日本人の偏見などで、いじめられ、悲惨な生活を送った人が多かったそうです。その中で、雅子は異例の存在だったんです。彼女も自分の父親を知らないで育ったそうです。その頃、オーストラリア政府は、自国の兵士が日本人女性と付き合うことさえ禁止していたそうで、命令に背いた兵士は、強制送還させられたそうです。その頃のオーストラリアは白豪主義の国で白人以外の移民を拒否していたし、ましてや戦争中、日本軍の捕虜となったオーストラリアの兵達が、タイ―ビルマ鉄道を建設するために食べ物もろくに与えられず労働に駆り出され、多くの兵士が死んだことから、日本人は残虐であるという定評がたっていたので、日本人は一人たりともオーストラリアの土を踏まさないとオーストラリアの政治家も一般人も、息巻いていたそうです。だから、日本人女性を妻として連れて帰りたいと言う兵士の願いは長い間無視されたそうです。

雅子が後で、おじさんから聞いたところでは、強制送還される父親を見送りに行った母親は、出航する船に向かって、黙って深々と頭を下げて、船が見えなくなった後も長い間動かなかったそうです。きっとお母さん、泣いていたのでしょうね。その時、お母さんは、妊娠していたことをお父さんに伝えることもできなかったそうです。

今でも、戦後外人の兵士と付き合っていたのは水商売の女だけだと誤解している人が多いようですが、雅子のお母さんはちゃんと女学校も卒業して、進駐軍に雇われて、事務所で会計の手伝いをしていたそうです。呉キッドの母親の3分の1は基地で働いていた女性で、3分の2は密かに結婚式をあげていたそうです。パンパン、いわゆる売春婦だったのは5%-10%位だったという報告を読んだことがあります。

お母さんは、強制送還された父親とは音信不通になり、進駐軍の仕事も解雇され、色々な農家の下働きをしたりして、雅子を育てたそうです。

雅子は、他の子どもと違って、頭が良かったので、呉キッドの話を聞いて同情したオーストラリアのキリスト教会の会員が出資した奨学金で、大学に行くことができたんだそうです。

雅子はずっと自分の父親がどんな人だったのか、会ってみたかったそうですが、父に会いたいと言うと、母親を裏切るようで、ずっと、その思いは胸に秘めていたそうです。でも、今年の1月お母さんが亡くなり、父親探しを本格的にしたいと言い出したのです。

そういう訳ですから、一ヶ月くらいそちらに泊めてやって、一緒に雅子のお父さんを探してくれませんか?オーストラリアにいる日本人で、こんなこと頼めるのはあなたしかいなくて、お願いしています」

私は、雅子が、父親も知らず、厳しい環境に育った人だと聞いて、内心驚いた。いつも明るく笑いの絶えなかった雅子に、そんな暗い過去があったとは、思いもしなかった。ハーフって、可愛くて羨ましいと思ったくらいだから、ハーフの子がいじめられていたというのも驚きであった。私の夫はオーストラリア人なので、私の娘も、ハーフである。娘を日本の幼稚園に半年ばかり通わせたことがあるが、その時、可愛いと言ってチヤホヤはされても、いじめられた形跡はなかった。これも時代の移り変わりなのかもしれない。何しろ、雅子も私も65歳の熟女である。つまり65年前の話である。

娘も独立して家を出て行った今、退屈していたところだったので、私はすぐに美香の依頼に全面的に応じることにした。夫にも話したが、夫は彼女を我が家に泊めることに異存はなかった。

雅子が来る日、私は空港まで迎えに行った。たとえ50年近く会っていなくっても、分かるだろうと思っていた。ところが税関をすませて出てくる人たちを一人ひとり目を皿のようにしてみたが、いつまでも雅子らしき人物は出てこない。時計を見ると、飛行機が着陸して1時間は経っていた。

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悲劇の友

「おかあさ~ん」と子供が泣いて抱きついてくる。その子を抱き上げたいのに、金縛りにあったように体が動かない。何か言おうにも声がでない。子供を助けなくっちゃと、もだえ苦しんでいると、ぱっと目が覚めた。

「ああ、夢だったのか」と志信は安堵のため息をついた。

志信は、抱きついてきた子供のことを思い出していた。夢の中で抱きついてきた子は、自分の娘、楓ではなかった。裕子の娘の由香だった。寝る前にインターネットを通して裕子と話したのが、悪夢の原因だったことに思い至った。

楓が生まれて間もないころ、志信は楓の世話で忙しく、外に出る機会もなく、周りに友達が一人もいなかった。楓に母乳を与え、おしめを変えて、掃除洗濯で一日が終わる。「ああ、今日も夫以外の大人と話す機会がなかった」とため息をついたのは一度や二度ではなかった。勿論楓は可愛い。寝顔をいつまでも見飽きることもなく眺めている時は、母親としての喜びを感じる。でも、毎日が同じことの繰り返しに耐えられなかったのだ。そんな毎日をすごしていた志信は、ラジオでインターネットで孤独なお母さんたちのためのネットワークがあると聞き、すぐにそのクラブに加入した。裕子とはそのクラブで知り合った。裕子にはすぐに惹かれていった。惹かれたという表現は正しくない。裕子のことが気になってならなくなったのだ。それは、志信が裕子に自分の母親を思い重ねたからだろう。志信の母親は、志信が5歳のときに死んでいる。志信の記憶に残っているのは、胃癌にかかって、痛みにのたうちまわる母親の姿だった。母親がなくなった時の喪失感は、20年以上経った今でも鮮明に覚えている。だから、裕子の「私は末期の大腸がんにかかっていて、医者からもう3ヶ月の命だと言われました。私には2歳の娘がいます。この2歳の娘を残して死ななければいけないのかと思うと、死んでもしに切れません」と言う言葉に、胸をつかれたのだ。裕子の娘が20年前の自分と同じ立場におかれているのかと思うと、他人事とは思えなかった。志信はメルボルンに住み、裕子は横浜に住んでいたが、二人の友情は距離とは関係なく、この一年深まっていった。知り合った時、あと3ヶ月の命だと言われた裕子は、幸いにもまだ生きている。

裕子と知り合ってからの志信の日課は、裕子との交信を中心に回ったと言っても過言ではない。

最近は、朝3歳になった楓を幼稚園に送って家に帰ると、すぐにコンピュータに向かって、裕子と交信する。そして掃除洗濯をして家事を済ませて昼ごはんを食べ終えると、また裕子とインターネットを使ってカメラを見ながら話す。裕子には両親も兄弟もいないという。頼りになるはずの夫も、裕子の発病とともに険悪な関係となり、離婚を迫られているという。なんと冷酷な夫だろうと、志信は裕子の夫に対して激しい憤りをおぼえた。毎日裕子の病状を聞いて、裕子を慰める。時には泣きながら夫の非情をなじる裕子と一緒に涙を流した。夕べも裕子と交信したのだが、裕子は抗がん剤の副作用で髪の毛がなくなり、青い顔をしていた。そんな裕子に由香がじゃれついていた。

  その日も楓を幼稚園に送っていって帰ってくると、すぐにインターネットを開いた。しかし、志信が裕子に何度電話しても、通じない。

「もしかしたら?」と思うと、その日はご飯も喉を通らなかった。不安な日が3日続いた。そして3日目にインターネットのいつものサイトを開けると、志信の目に

「裕子の友人、神崎博子より」と言う字が飛び込んできた。裕子でなくて、どうして今まで聞いたこともない裕子の友人が裕子の代わりに出てくるのだろうと、一瞬不思議に思った。そして、その続きを読んでいくうちに、志信の顔色が変わっていった。

「裕子さんは3日前病状が悪化して、今朝の5時に永眠しました」

裕子が死んだ?志信は信じられなかった。確かに3日前にコンピュータのカメラを通してみた裕子は見るからにつらそうだったが、そんなに症状が急変したとは思われないし、思いたくもなかった。裕子との交わした最後の会話を何度も思い出した。

「もう、このまま死んでしまうのかと思うと、悔しいわ」

「そんな弱気を起こしちゃ、由香ちゃんがかわいそうじゃない。由香ちゃんのためにも癌に負けてはだめよ」志信がそういって励ますと、「そうね。由香のために死んじゃ、いけないわね」と、裕子は弱弱しい笑みを浮かべた。

そして、「また明日」と言って、交信を終わったのだ。

裕子がとうとう死んでしまったのだと言う実感がわくまでには、かなりの時間がかかった。それから裕子の友人に裕子の最後の状況を聞こうと思い立ち、メールを出したが、その日を境に、裕子の友人からの通信も途絶えた。

今まで、裕子のために心を尽くした志信は、まるで恋人を失ったように、心に空洞ができ、段々うつ状態になっていった。由香はどうなったのだろう?由香の事も気になる。だから楓や夫の隆が話しかけても、ぼんやりとして答えないことが多くなった。

そんな志信を心配して、隆が言った。

「裕子さんのお墓にでも参ってきたら、気持ちが治まるんじゃないか?今の君を見ていると、まるで魂を失った亡霊みたいだよ。横浜に行って来いよ」

 志信も隆の言葉に動かされて、楓を連れて、裕子の家がある横浜に行ってみようと決心した。裕子の娘の由香がどうしているのかも知りたい。ところが裕子の家の住所を聞いたことがないことに気づいた。裕子が入院していた病院は横浜にある大槻病院と言ったことだけは覚えている。大槻病院に行って聞けば、裕子の住所も分かるだろう。

思い立ったが吉日で、その1週間後には、志信は楓を連れて、羽田空港に降り立った。羽田からすぐに大槻病院に向かった。大槻病院の住所はインターネットで調べておいたので、すぐに分かった。個人の家ではないので、タクシーに乗れば、すぐに連れて行ってもらえるだろう。そう考えて、タクシーに乗った。大槻病院は駅から15分のところにある新しい病院だった。

 病院の入り口を入るとすぐに待合室になっており、受付は、その奥にあった。待合室には年取った患者で溢れていた。待合室はまるで老人の社交の場のようで、自分の病気の愚痴を言い合っているのがここかしこで聞こえた。

受付に行くと、志信は、

「私は牧原裕子さんというがん患者さんの友人ですが、牧原さんが先日亡くなられたと聞いたので、おうちにご焼香に伺いたいのですが、牧原さんのご住所を教えて頂けませんか?」と聞いた。

「牧原裕子さん?どんなご病気でしたか?」

受付の女は初めて聞く名前のように不審そうな顔をして聞いた。

「大腸がんです」

「癌病棟は、この廊下をまっすぐ行った先にありますから、そこで聞いてください」と言われ、志信は楓の手を引いて、癌病棟に向かった。癌病棟でも志信は同じ質問を繰り返したが、そこの受付でも、「牧原裕子さん?そんな患者さんはいませんでしたよ」という答えがもどってきた。

志信は、何が何だか訳が分からなくなってきた。裕子は、確かこの病院の患者だったはずだ。

その晩泊まった横浜のホテルで、インターネットで裕子の家の電話番号を調べようと思ったが、検索できなかった。

 結局、志信は、裕子の居所を突き止めることができず、日本に1週間いただけで、すごすごと自宅に戻ってきた。戻ってきたときの志信は、行く前よりもうつ状態がひどくなっていた。

 そんな志信を見て、隆は今度は臨床心理士の所に行ってみるようにすすめた。

志信が夫の会社の人に紹介されて訪れた臨床心理士は、にこにことして、やさしそうな50代の男性だった。志信は、この人になら何でも話せそうだと、裕子と知り合った状況、裕子が突然消えたことなどをくわしく話した。志信の話にじっと耳を傾けていた臨床心理学士は、志信の話を聞き終わると、

「その裕子と言う人は、きっとMBIですね」とおだやかに言った。

「MBI?なんですか、それは?」

「Munchausen By Internet,つまり、インターネットを使って、皆の同情を買おうという病気です。現実の世界で友達を作ることができない社交性に欠けた人が、インターネットを使って不特定人数の人の注目を受けて、孤独感を取り除こうというする精神病の病名です。この病気にかかった人は色々な嘘をつくのですが、あなたもそれにひっかかったんですね」

「それは、つまり私は裕子に騙されたと言う事ですか?」

「まあ、そういうことになりますね」

「でも、あとで裕子の友人から裕子の死の通達があったんですよ」

「それも、本人が友人のふりをして書いたんですよ。裕子と言う名前もおそらく本名じゃないでしょう。そして今頃はまた違う名前で、皆の同情を買うような新しい話をでっちあげて、あなたのような人を相手に、自分の作り話をしていることでしょう」

 だまされたと言われても志信はにわかには信じがたかった。しかし、色々な裕子とのやり取りを思い出すと、思い当たることがある。あの髪の毛の抜けた頭ももしかしたらカツラを被っていたのかもしれない。青白い顔にしては、頬がふっくらしていた。あれもそういうメーキャップをしたせいかもしれない。不審だったことが今ではパズルがとけるように、段々分かってきた。それに気づくと志信は、頭に血が上ってきた。

そして「私のこの一年間は何だったのだろう。裕子の嘘を信じて、彼女のために泣き、彼女のために心を砕いたこの一年間は。裕子のためにズタズタになった私の気持ちはどうしてくれるのよ!」

志信は心の中で、そう叫んでいた。

 

 

参考文献 Goodweekend, April 16, 2011 29-30ページ Faking it

 

 

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再会(後編)

早苗はまたロベルトに会えると思うと、浮き浮きしてきた。ニックが亡くなってから3年。やっと一人暮らしにも慣れ、一人暮らしも気楽でいいと思いながらも、心の奥底で孤独を感じる日もあった早苗は、ロベルトとの再会がもたらす先行きを想像すると、嬉しさで一杯になった。ロベルトのメールには、家族のことが一言も書かれていなかったが、それは家族がいないためだと思われた。もしかしたら、老いらくの恋が芽生えるかもと、心ひそかに期待するところがなきにしもあらずであった。

 待ちに待った日曜日がやっと来た。朝起きてすぐ窓から空を眺めると、最近しょぼしょぼ降っていた雨も上がり、青空が広がっていた。なんだか、早苗の気持ちを天気までが応援してくれているように思った。この日のために買った紺色のワンピースを着て、真珠のネックレスをした。中年太り、いや熟年太りで、と言うべきなのかもしれないが、少し出っ張り始めたおなかも、このワンピースを着れば目立たなかった。鏡を見ると、目尻にできたしわが気になり、丹念に化粧をした。何度も鏡の前に立って、身なりを整え、最後に満面の笑みを浮かべて、「これで、よし!」と自分に言った。いつもは履かなくなっていたハイヒールを久しぶりで履くと、心まで引き締まって来た。

 フリンダース駅に着いたのは、約束の時間の30分も前だった。電車のキャンセルを恐れて早めに家を出たからだ。最近電車に乗ることが少なかった早苗は久しぶりのフリンダース駅が懐かしかった。構内は改装されて昔と違ってだだっ広い広場になっていたが、時計がある正面出口は昔と変わりなかった。いくつもの時計が並び、それぞれいろんな路線の次の発車時刻を示していた。この時計の下でよく英語学校の仲間と待ち合わせをしてみんなと一緒に映画を見に行ったり、ピクニックに行ったりしたものだ。

 早苗は早く着きすぎて手持ちぶたさになった時間をつぶすため、駅の向かい側にあるフェデレーション広場にあるカフェに行った。そこでカフェラテを飲みながら、通りを歩く人々の流れを目で追った。アジア系の顔、欧米系の顔、アフリカ系の顔、インド系の顔。メルボルンは多民族社会なのだとつくづく感じさせられた。40年前はほとんど欧米系の顔しか見られなかったと、40年前の保守的だったオーストラリアを思い出し、この40年の間のオーストラリア社会の変貌ぶりに感慨の念を抱いた。

 ラテを飲み終え、時計を見ると約束の時間5分前だった。コーヒー代を払い、信号を渡って約束の時計台に向かった。時計台の下には、5人ばかり人が立っていた。皆人待ち顔だった。その中に緑のセーターを着てジーパンをはき、手に本を持っている男を見つけたとき、早苗は一瞬どきっとしたものの、みるみるうちに躍る心は萎えてしまった。その男は、頭のはげかかった、ビール腹のでっぷりした男だったからだ。あの筋肉が引き締まってがっちりしたロベルトとは、別人のようだった。早苗は足を釘づけされたように、その場に立ちすくんだ。そしてしばらく、その男を眺めたかと思うと、踝を返して、その男のいる方向と反対方向に足早に歩き始めた。早苗は、自分の記憶にあるロベルトががらがらと音を立てて崩れ去っていくような気がした。

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再会(前編)

早苗は、毎朝の日課になっているインターネットのメールを調べた時、懐かしい人の名前を見つけ、逸る気持ちを抑えながらメールを開けた。ロベルト・スパジャーリ。イタリア人の彼と会ったのは、オーストラリアの移民のために開かれている英語教室だった。あの頃のロベルトは、がっちりした体型の、黒い瞳がきらきら輝くハンサムな青年だった。英語教室に一日たりとも欠席せずに通ったのは、彼に会いたいがためだった。そんな40年前の心のときめきが彼の名前を見て、蘇ってきた。

 彼がまたどうしてメールをくれたのだろうか。

「早苗さん。

あなたの名前をフェイスブックで見つけました。もしも、あなたが私の知っている北川早苗さんならば、是非お会いしたいです。僕は早苗さんと一緒の英語教室に通っていたロベルト・スパジャーリです。英語教室で5人の仲良しグループができましたが、その中に、北川早苗さん、僕、そしてチリから亡命して来ていたアルベルト、ロシアから移民してきたキールン、そしてベトナム人の難民のボさんがいましたよね。僕はあれから大学に入学し、卒業した後は公務員として働き、先月退職しました。他の仲間にも連絡を取りたいのですが、インターネットを検索しても見つかりません。他の仲間はインターネットと縁のない生活をしているんでしょうか。もしもあなたが僕の知っている早苗さんなら是非お返事ください。そしてまだ他の仲間の住所が分かれば教えてください。今度皆で会いませんか。

ロベルト」

 そのメールを読んで、早苗の顔に笑顔が広がった。アルバルト、キールン、ボ。なんて懐かしい名前なんだろうと、40年前早苗がオーストラリアに来て間もないことのことを思い出した。あの頃、早苗も20代で、若かった。

 アルバルトはチリの独裁政権から逃れるために、難民としてオーストラリアに来たと言っていた。そのころオーストラリア政府から週30ドルの手当てをもらい、倹約に倹約を重ねて30ドルのうち10ドルは、まだチリに残っている母親に送っていた。その頃のオーストラリアドルは1ドル400円で、1ドル360円だったアメリカドルよりも値打ちがあったし、その頃のオーストラリアは今と比べて何でも安かった。シェアハウスを探せば、家賃が週15ドルくらいですんだのだ。

 キールンはのっぽでニキビだらけのまだ20歳にもならない青年だった。まじめ人間で、英語学校が終了したとき、皆でお祝いのためパブに行ったが、その帰り道二人になったとき、キスをされた。キールンに対して、友達以上の感情はもっていなかったので、そのキスには驚かされたが、早苗はキールンは自分を好きだったんだと思うと、まんざら悪い気はしなかった。しかし、その翌日、シュンとなったキールンが私の下宿先に来て、

「酔った勢いで君にキスしてしまって、ごめんなさい」と謝りに来た時には、

「謝らなくてもいいわよ。私、気にしていないから」とは言ったものの、好きでもないのにキスをしたと言われているようで、内心傷ついたのを思い出した。

 ボはベトナム戦争の戦火から逃れて、ボートに乗ってきたいわゆるボートピープルだった。戦争という悲惨な状況を体験したせいか、グループの中で一番無口だった。でも、彼の誠実な人柄は、みんなの気持ちを和ませ、私たちの仲間だった。

 今頃、みんな何をしているのだろう。残念ながら、早苗はその頃の仲間とは全く音信不通となっていて、誰が何をしているか、皆目見当がつかなかった。

ロベルトのメッセージを読み終えて、早苗は

「勿論あなたのことを覚えているわロベルト。だってあなたは私がオーストラリアに来て初めて好きになった人ですもの」と、心でそう思いながら、すぐに返事を書いた。

「ロベルト、

懐かしいですね。勿論あなたのことを覚えています。他の仲間のことは、残念ながら知りません。私はあれからニックというオーストラリア人と結婚して、二人で小さなレストランを経営しましたが、ニックは3年前に亡くなりました。その後私もレストランを売って自由の身となり、今はボランティア活動をしています。是非会いたいですね」

すると、すぐに返事が来た。

「早苗さん

また会えると思うととても嬉しいです。それでは来週の日曜日、正午にフリンダース駅の時計の下で待っています。一緒にお昼ご飯を食べましょう。僕の顔を忘れているかもしれないので、念のために僕は緑のセーターとジーパンをはき、手に本を持っておます」

それに対して、

「とっても楽しみにしています!」と早苗もすぐに返事を出した。

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透明人間(最終回)

里香はスコットが3ヶ月も戻ってこないのなら、その間日本に帰ろうと、スコットの給料が振り込まれると、すぐに日本への航空券を予約した。スコットには連絡する方法がないので、黙って帰ることになるが、日本には1ヶ月しかいないつもりなので、スコットが帰ってくるときには、メルボルンにいるわけだから、いちいち知らせる必要はないだろうと思った。

里香が日本に帰る日、スーツケースをひっぱって戸口に立ったとき、玄関の呼び鈴がなった。ドアの穴からのぞいてみると、なんとスコットが立っている。3ヶ月帰ってこないといっていたのに、2週間も経っていない。それに、スコットが見えるということは、スコットがもはや透明人間ではないことを意味している。何が起こったのだろう?里香ははやる心を抑えて、玄関のドアを開けた。

ドアを開けたとたん、「はっくしょん!」とスコットが大きな咳をした。

「どうしたの。スコット?風邪でも引いたの?」

スコットは熱もあるようで、顔も赤い。

「うん。ひどい目にあったよ」

「もう、透明人間じゃなくなったのね」

「そうなんだ。詳しいことは後で話すから、中に入れてくれないかな」と言う。

里香が戸口にたちはだかっていたので、スコットは家の中に入れなかったのだ。

あわてて、体をよけてスコットを家の中に入れると、スコットはヨロヨロとなった。

「気分が悪いのね」と里香はスコットの体を支えるようにして、ベッドルームに連れて行き、服を着たままのスコットをベッドに横たえさせた。スコットの体を触ると、熱い。かなりの熱があるようだ。それに今目の前にいるスコットは透明人間ではない。一体、スコットに何が起こったのだろう。

里香は不安な気持ちでスコットに熱さましの薬を飲ませたりして、看病を続けた。薬を飲んだ後、スコットはすごいいびきをかきながら、眠りに陥った。

スコットが目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。疲れ果てていたようだ。

「一体、何があったの?」

気がせく思いで聞く里香に、スコットはうつろな眼をしながら、この一ヶ月の間何が起こったのかを思い出すように、ゆっくりと話し始めた。

「ASIOでは、普通は6ヶ月かけて新人の研修をするんだそうだけれど、僕が人事部長に直接会って話をし、服を脱いで透明なことを見せると驚いちゃって、今スパイが足りなくて困っているところだから、ちょうどいいということになってね、北朝鮮に送られることになったんだ」

「北朝鮮!」

「そう。なんとなく不気味なところだろ?最近北朝鮮ではキム・ジョンウンが弾道ミサイルを盛んに飛ばすし、核兵器の製造も着々とすすんでいるみたいだろ?だから北朝鮮の核兵器に関する情報集めの任務を与えられたんだ。核兵器が開発されたら真っ先にやられるのは日本だろ?僕も里香の日本の家族のためにも頑張ろうと思って意気揚々と北朝鮮に行ったんだ」

「あなたの気持ちは嬉しいけれど、でも、あなた、韓国語も分からないのに、スパイ活動なんてできるの?」

「それはさ、僕が透明になるのは、表面からで、内部は透明でないから、小さな盗聴器を握って、北朝鮮に乗り込むことになったんだよ」

「それで?」

「韓国とオーストラリアは友好関係にあるから、韓国側から国境を渡って北朝鮮に入ったんだ。そこまでは、よかったんだけれどね、北朝鮮は冬の寒い時期で氷点下10度だったんだよ。服も着ずにだよ。寒いのなんのって、凍え死にするんじゃないかと思ったら、ひどい咳が出始め、すぐに僕の存在はばればれになってさ、機関銃で撃たれながら、必死の思いで韓国にもどったってわけさ。すると、韓国側に逃げ込んだところで大熱を出して、倒れてしまい気を失ったんだ」

「それじゃあ、?あなたは透明人間だったのだから、誰もあなたを助けられなかったんじゃないの」

「それが、熱がでたとたん、その熱で体についていた氷が溶けるように、見えるようになったんだよ。それで、国境に警備に立っていた兵士にオーストラリア大使館に連絡してもらって、ほうほうの態で逃げ帰ったってわけさ」

里香はその話を聞くと、なんとも奇妙な気持ちになった。スコットが帰ってきてくれたのは嬉しい。だけど、スコットが透明人間でなくなったことは嬉しいような、悲しいような複雑な思いだった。

 スコットは、それでも里香のほうを見てにっこり笑った。

「これで、僕たち元通りの生活に戻れるね」

ほっとしたようなスコットの顔を見て、里香も

「そうね、これでまた元通りの生活に戻れるね」とスコットの言葉を繰り返していた。

 

スコットが風邪が治ったあと、元勤めていた学校の校長に事情を話したら、数学の教師は人手不足だそうで、すぐに復職することができた。ラッキーというほかない。里香にも平凡な日々がよみがえってきた。里香にはスコットが透明人間になったときの高揚した気持ちはなくなったけれど、平凡なことがいかにありがたいことかと、つくづく感じるこの頃である。

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透明人間(4)

里香の不安は現実のものとなった。今日は姿が見えるかしらと、毎朝目が覚めるとすぐにスコットの寝ているほうを見るのだが、スコットの姿が見えない日が続き、スコットも里香も、あせりを感じ始めた。スコットが透明人間になってから、一週間が経ち、それが2週間になり、一ヶ月もたつと、二人の焦りは、絶望となってきた。この一ヶ月、スコットは誰とも会うことができず、結局は一ヶ月学校を休み、辞職せざるを得ない状況に立たされた。

「透明人間でも、できる仕事って何だろう?」スコットの問いに、里香は考えてみた。

「魔術師のアシスタントなんかできるんじゃない?宙に物を浮かせるとか、物を移動させるとか」

「そんなの、普通の魔術師でも、透明人間の手を借りなくてもやっているよ」

ため息交じりのスコットの声が戻ってきた。

「じゃあ、スパイ?透明人間ってスパイにもってこいじゃない。姿が見えないのだから、盗聴することなんて朝飯前でしょ」

「スパイねえ」

スコットはスパイになるのは気が進まないようで、気のない返事がもどってきた。

「そうだ!」

急にスコットが大きな声をあげた。何かいいアイデアが浮かんだようである。

「カジノで一儲けできるかもしれないぞ」

「どうやって?」

「ポーカーをするときに、他の人の手を見て、君に知らせるからさ、それで賭けるか賭けないか判断すれば、大もうけできるぞ」

「それって、私がポーカーをするって言う意味?」

「勿論そうだよ。ほかに誰がいるんだ?」

「そんないかさまをやって、ばれたときは、どうするの?全面的に私に罪がかかってくるってことじゃない。袋たたきにされるのが、落ちだわ。そんなのごめんよ」

「オーストラリアのカジノって、やくざがやっているわけじゃないから、袋たたきにはされないよ」

「ともかく、そんな危険なことをするのは、ごめんです」

なかなか二人の話はまとまらない。

結局、よく小説にでてくるように、スパイになるってことで話が落ち着いた。

「でも、スパイって、ばれたら殺されることもあるって覚悟しなくちゃいけないんだろ?」といつまでも渋っていたスコットを、里香が説得したのだ。

「じゃあ、何をする気なの?」

スコットは、カジノのいかさまで危険なことをするのはいやだと言っておきながら、自分には命が危険になる仕事をしろという里香の言い分は身勝手だとは怒ったものの、ほかにスコットができそうな仕事は思いあたらず、里香の質問には答えられなかった。

オーストラリアの諜報機関と言えば、ASIOと呼ばれる機関だが、アメリカのCIAとかFBIなどのように、怖いとかカッコいいとか、そういうイメージはまったくなく、影の薄い存在だ。ASIOのウエブサイトを見ると、採用されたら首都のキャンベラで6ヶ月のトレーニングのあと、どこに赴任されるか分からないと書かれていた。スコットの場合は特殊な事情なので、直接交渉をする必要がある。ともかくASIOに直接行って、交渉してみようということになった。里香も付き添いで一緒にキャンベラに行こうと思ったが、里香が一緒に行っても、なんのメリットもない。スコットが透明人間になって行けば、航空費だって浮く。厳しい経済状況なので、お金を節約するため、里香はメルボルンに残ることになった。

里香はスコットを空港まで見送り、スコットをおろしてからすぐに家に帰ってきた。その晩、スコットから「採用されたよ」と、嬉しそうな声で電話がかかってきた。「それじゃあ、6ヶ月のトレーニングがキャンベラであるのなら、私もキャンベラに引越ししたほうがいいわね」と言うと、「それが、僕には特殊な任務が与えられることになって、どこかに赴任されるのは、そんなに時間がかからないということから、里香はそのままメルボルンで待っていてくれよ」

「じゃあ、単身赴任ということになるの」

里香は予想もしていなかった展開に戸惑った。

「そうなるね。3ヶ月後に3週間休暇をくれるって言ってるから、3ヵ月後には帰ってくるから心配しなくていいよ」

あんなにスパイはいやだと言っていたスコットなのに、電話で聞く声は別人のように、張り切っているように聞こえた。きっとASIOで、おだてられたに違いない。

「3ヶ月も待たなければいけないの?」

「給料は、二人の口座に振り込んでくれるって言うから、君は食べるのに困らないはずだ」

里香の経済的なことを心配してくれるのはありがたかったが、スコットが3ヶ月も家にいなくなるのは、里香としては、心細くて仕方なかった。

「どこにいるかだけでも、知らせてよ。心細くて仕方ないわ」と言うと、

「それが、赴任先は誰にも言ってはいけない規則になっているんだよ」

「それじゃあ、私が死んでも、知らせることができないってわけ?」

里香の声がとんがってきた。

「そんな時は、ASIOに連絡してくれれば、ASIOから僕に伝達してくれるよ」

結局、今度は里香のほうがスコットに説得される形になって、スコットがASIOに任務を与えられて、どこかに行ってしまうことになった。

著作権所有者:久保田満里子

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